山田有浩 / Arihiro Yamada

Information of Arihiro Yamada (dance, butoh / ダンス, 舞踏)

10月27日 水曜日、晴れ。






更に肌寒い季節になってきました。
久しぶりに晴れて気持ちよい。晴れの日の寒さはまた格別ですね。
今日も落ち葉を集めることから始める。
古い山の紅葉が懐かしい。祖父の見ていた湖の紅葉が懐かしい。
いつも水を撒く。


風に草が揺れるように踊る。状況に反応する身の揺らぎを感覚する。
風がなくとも引力で揺れる。動きの前に引力があった。動きがあって時間が生まれた。


始めに雌ありき。雌のなかの限られた存在が後天的に雄になること。
性別と死。両性具有と死。無性生殖と死、或いは再生。


たくさんの、片言を交わしながら来ては去りゆく人々のひとりひとりを、
あぁ、この人たちもいつか死ぬんだなぁ、と思いながら過ぎてゆく。
私だってそう。赤ん坊だってそう。
この人もまた、誰かにとってのなにがしかなのだなぁ、と思う。
死ねば、それが好きな人であってもきらいな人であってもなにがしかの感慨は覚えるものかもしれない。人間。
動物だって、その多くは、死体を見ればまず匂いを嗅ぎにゆく。死体の周りをウロウロする。または、しない。(匂いは視覚以上に確かな手掛かりのひとつなんだよなぁ……)。
そういえば先日の雨の真夜中過ぎに森の公園を歩いて帰っていたところ、左足にグチャッという感触があった。
眼を凝らしてみると、ガマガエルが右前足を引きずりながら薮の方へゆっくりと引き上げてゆくところだった。


生きることは受け入れるということと同時に抵抗することか。まずはじめの抵抗は、重力に対する。宇宙が膨張したところからつながっている。そこには"力"が生まれて。うねり・ひねり・なみ、ゆれ、から。
ただひたすら同じようなことを感じつづけながらも、世界に対する身の置き方は僅かずつ変化してゆく。



記すこと。今を記録しておこうとすること。今が流れていってしまうのがそんなにこわいか。今が流れていってしまうのがそんなにもったいないか。
幻でないことを確認しようとすること。が、逆説的に幻であることを暴いてしまうこと。
記さないこと。

言葉も、声からも遠く離れて過ごすことを試みる数日。
眼だけ、耳だけ、鼻、触覚だけになって、生きてみる試み。
別に無理をするでもなく。
それでもなお、言語で世界を見るのならば、それでも良いでしょう。
純に感覚を澄ませてゆく試み。