山田有浩 / Arihiro Yamada

Information of Arihiro Yamada (dance, butoh / ダンス, 舞踏)

03月23日 水曜日、雨。










どうしょうもなく涙が出てしょうがないので、
ダニエル・シュミット観たりします。『ラ・パロマ』のこの場面ばかり、何度も何度も観たりします。
これまで見た1500本くらいの映画の中で、もっとも好きな場面のひとつです。
この場面だけ観れただけでも、生きててよかったと、何度も何度も思ったことです。















言葉を発すれば発するほどに、
悲しさだけ、虚しさだけが、ただただ残り、




放射能を含んだ雨が、椿の花を地面に落としていって、
その花を、花壇の脇に並べて置いてってる方が、誰かしらいらっしゃることに、
その何気ないこころの気配の痕跡に触れながら、感じ入っております、
ここ数日です。
今日はみぞれでした。
歩きました。
朝露と見まごった芽が含んだ滴の光の粒は、
数日前のお月さんを浴びた折の僅かな灯のふるえをいまだ懐に保つようにして、
碧と白の雨の結晶とふるふる結びつきながら、しづかに卓上に佇んでいました。

乗り継ぎながら、ゆるやかな場へと歩きました。
小さな流れの層が折り重なった悠久の大河の間です。
二本の笛があり。
空気の通り道として。
位相幾何学の話をしました。
場のことを。間のことを。器のことを。空洞のことを。
色即是空
空があっての色。色があっての空。
間に立つ人のことを、人間と呼びます。
身体という器に、息として色々な風が吹き抜ける際に、
喜びも悲しみもやってくるのだと。
人間は、越えなきゃならない。
そのための想像力なのだと。
そのためにも、いとしきものを殺さなきゃならない。
記された憶とともに、おもかげとともに、歩むことしか。
尽きた果てから。









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4月3日、予定通り、公演を行わせていただくこととなりました。
やるからには、魂込めて、その場に立たせていただく所存です。
いろいろな意味で、"はじまり"となる作品になれば、との想いで。
とはいえ、そんなにたいしたことは出来ないのかもしれないけれど、
それでも人は、それぞれに出来ることをやってゆくしかないのだと、
それぞれの身の丈にあったところから、ただただ誠実に
できることを精一杯まっとうしてゆくしかないのだと、。
でも一人一人のそれらが社会の中で響き合えば、
きっとまた、これまでよりよりよい世界が紡がれてゆくはず…、と信じています。
今、それぞれがここで感じているであろうこと、
ここ数日で目の当たりにし、感じたものの、
紛れもないたしかな感覚、感触、
(もしかするともやもやした名付けえないものかもしれない、
けどもたしかなその感触、)、
今、ここで見て、感じる、感じた地平から、再びこの列島にある社会を、
問いなおしてゆかなきゃならないのだと、…、
大切に、大切に、大切なものを大切に、
今感じていることを大切に、
これから少しずつでも、紡いでゆくことしかできないのだと思います。

今回の公演、「万象連歌」と名付けました。
ここで云われている"連歌"って、
縦へと連なってゆく軸、と、
横へと連なってゆく軸、を、
共に宿しているように、ふと思われました、
ふと気付かされました、
3月11日を境にして、いろいろと思い巡らすうちに、。
縦の軸とは、
世代から世代へと脈々と時代を越え、連なってゆく、つながってゆく、伝わってゆくものとしての"連歌"……、
そして横の軸は、
今、この同じ時代、同じ時を共に生きる者通しに、共有され、つながり、広がり、循環してゆくものとしての"連歌"……、
それを私たちは、
「うた」とか「記憶」とか「文化」とか「生態系」とか「魂」とか、
いろんな呼び方をしてるにすぎないのだと思います。
万物はそうやって連なっており、
それぞれの存在が互いに互いを映し出す鏡のようなものとして、
存在しているにすぎないのだと思います。
そうやって連なってゆくものは、
また別な云い方をすれば、
願いとも、祈りとも、また、手渡される、託される、存在の希望の影、或いは光とも云えるのかもしれません。