山田有浩 / Arihiro Yamada

Information of Arihiro Yamada (dance, butoh / ダンス, 舞踏)

三月。













一日(晴れ)
相変わらずの雑魚寝より起床する。
タイトルが決まった時点で出来上がったようなものなのかも知れぬ…。/足穂は何処かのインタヴューでジェンダーの問題でも欲望や快楽論でも宇宙感覚を取り戻すことから考えなきゃならんと説いていたけれど、其処に更に生態学や生命形態学や生態学的心理学を持ち込んでみること…、。/違和感を産み出すこと、。関係の渦中で言葉を紡ぐ…言葉を生み出す場をつくること、。/渋谷の交差点で煙草買う、眼に沁みる。
六十年代マックス・ローチオマール・ソーサ、ソーサにイル・ボスティーノ連想す。

二日(雨のち曇り)
(夢、サーストン・ムーアさんに親密に呼ばれNYに日帰りの電車で向かう、時間があればマンハッタンに寄りたかった…抜ける様な青空とビルを見上げた、薄暗きクラブの兄さんは寝て居ないとのこと、水を頂く、フロアに白き麻布で路をつくりコップの水を置いてゆく…、)。
其れは人間観察と云うよりも空間(身体及び其れが纏うものも含む"場"としての)が醸す空気感に敏感なのだろう、と……。此の方の父親ってどんな方なんだろとぼんやり思って居ると其んなこと一言も話してないのにひょんな事で其の親御さんと当方は同じ誕生日だったと明らかに、冬の星座の話から。新潟土産頂く。夜はしづかに進んで行く。
書物と云うひとつの建築空間の中に刻印されて在る"書かれた言葉(エクリチュール)"はきちんと場処の記憶及び紙の肌理と共に身体の中に残るから好きなのよね、って。/人から頂いたものを身体に入れて行く、という行為の何とエロティックなこと、他者がつくってくださった有機物を噛み砕き吞み込むと云う行為にいちいちドキドキとする……、生きて行こうとする限り動植物のいのちを食らうと云う祈りにも似た暴力的行為は避けられぬが其処に敬意や畏怖はあってほしい…。/中国の田舎で太陽功を行ってる爺が空海みたいなこと云いはじめたもので大笑い。父より電話。

三日(晴れ)
(夢、沢山置いてあるペットボトルの飲料水、午後の紅茶、駅に開かれた校門の広い階段、Yさん授業にM来るを向かえるも雰囲気が浮きすぎないかしら、と)。
日向の窓辺で黒猫が寝ている、右肩の強張りが今一つ抜けきらず。姜泰煥聴く。
恍惚の人』観る、岡崎宏三のキャメラ素晴らし、黒の深い色が印象的、雨の細道を駆抜けて行く姿が段々と物影越しに追われて行く、時に不思議に幻想的な質感があり、大樹に射す光と小鳥、。
土取利行さんの話聞く、いきなりマイクも通さず笛吹き始め一瞬にして空気が変わる…、。古代インド叙事詩に見られる人間の愚かさ、戦争に就いて、此処にあるのは生命の循環でもあるかのように見えた…、。
昔馴染みのトラットリアからアイリッシュ酒場にて、政治・社会・文化・メディア・ジェンダー・過去・言語を扱う事・祖父の話等話す、タルベーラニーチェカフカヴィスコンティ尾崎豊とMJ、大陸移動と音楽人類学、政治哲学と文化人類学と詩を読む事、人間が好きだからこそ人間に絶望せざるを得ぬ、一つの精子が受精する為に数億の精子が犠牲になるという其の犠牲になった精子たちの命は何の為にあるのかに就いて考えぬ日はない、ブルジョアジーに生まれ育つという事、過去は自ら手繰り寄せて行くものだ、…。

四日(曇りのち雨)
(夢、山羊の群れに遭遇し鋭い角がこちらを何度も襲う、)。
別れる、此れが最後かも知れぬ、と何時も頭をかすめる、最後の言葉は此れで良かったか、此れで私は悔いが残らぬものか、別れ際に手を握らなかった、と云う一点がぽっかりと空洞を開ける、。/愛情表現は敢えて抑える、周到に準備するも拍子抜け、子供たちに手を振る、此の子たちにとって私は幻も同然だけれど私なんぞには見る事の出来ぬ沢山の風景が希望に溢れたものであります様に…、。音の質感の違いの話、。ベーコンとシメジのパスタ食らう。
大島渚『儀式』の構造、撮られねばならぬもの、儀式の如き構造の中で責任逃れさせられ続けている問題を浮き彫りに、。/『春の祭典』の響きと律動、ニジンスキーの野蛮な振付けを見て居ると時々土方巽の事思い出す…、。ブエノスアイレスと抱擁と波、大切な人の居る港町を想う、ニヒリズムに就いて。/アボリジニの村を尋ねたと云う人の手記を読んだ。/昨年末より私のリュックには絶えず青いビー玉が入っており、其れを置き土産の様にして至る処に黙って置いて歩いて居る…、青は海の女神の色だという話を聞く、。/雨の中を猥雑な渋谷徘徊して帰る、川中理紗子さんの舞いが観たくてならない、。

五日(雨のち曇り)
(夢、インドか何処かの大衆的料理屋の白いテーブルクロス、母、弟はトリュフォー映画を流す、。いつしかカラフルなレインコート着た数名で巴里の坂道を駆けている、Oさんと、左足を引き摺る、癌。伯母の車で凸凹路を駆ける、そう云えばあの夏に私は幾つもの車を潰していた、)。
連夜の寝袋生活で胸部が閉じて感ぜらるも春先に向けて胸腰部を蕾のように開いて重心を沈ませて行こうとする、。只管一定の雨量で降り続けておりうっとりする雨音、。文化とは生きて行く力を育てる事だ、と…。マックス・ローチ小野十三郎の律動と歌の考察思う。
(只美しいだけではなく何か特別なものが生まれる特別な場処…、)。能の動きや声や唄が引き延ばされるのは、引き延ばされる内実があるからなのでしょう、。/答えでなく問いを示す事、存在そのものが巨大な謎として死して尚残り続ける人…、彼の人は強靭なものを求めたのではなく脆く弱きものを求めた…。/通訳と語り部と詩人…。彼女が纏う其れは"黒"と云うよりも"闇"と呼びうる奥深さを持っている…。
深夜の町を流す静かな車の音、ちりちり燃えるストーブの音、ジムの傑作『Terminal Pharmacy』の音、。捲っており、息がつまるような、そんな純白に輝く書物、滅多に出会えるものではない、小刻みに振動する、放浪する民、風に呼ばれ、次の冬には北を目指す、私にはあんな歌は歌えない、あんな声も出ない、ので小さな声で自分なりのことばでつぶやくところからつむぎゆく、人前では恥ずかしくってできない、舞台の上はひとりだからできる、。

六日(晴れ)
(夢、此処の赤土なら出来るかも知れない、トウモロコシの化石化した痕跡、。/歴代の時間旅行者と遭遇したと思われる三次元映像、未来の其の又未来の空中にて突然に消える、。現代文教師Oの最後の授業、幼い子の漫画、宇宙から授かりし…、。/車に乗り気付けば助手席よりどうにか運転す、多様な民族音楽集CDの流れに音楽好きの伯母Tは反応す、見知らぬ田舎の地に迷い込み農園をやっている婆さんに道尋ねる、彼女の車であれば顔パス出来る道があるようだが(二十時迄に帰って来れるかい?)と問われ有り難くも無理である、。フワーッと浮かぶ白きテーブルクロス、皆居て同窓会の様で懐かし、。Aは白いマリリンモンローの様なドレス、インド人の首相はスターウォーズの様な衣服、十二歳で二十四歳の男と結婚した娘を知る、。私の出し物はふざけ過ぎて居るか、ストーブと私としっかりした女の子たちは紙を飛ばす…、(ちゃんとやってよね)と云うKに一人二声の唄声…。/祖母の葬式…、(やってられっか、)、と中に入らず外で待つ、Yカントクも別な方の葬式で外にいらした処Wさんフォークギタァを持って現れ「ラピュタ」の唄を歌い始め人々を巻き込んで行く姿は正に恩寵で素晴らしい見知らぬ人々と共に私も歌って居た、。気付けば式も終わり、遺体を燃やす直前であった、これまでも愛する人の遺体にキスをしたいと感じる事は幾度かある、一目会いたかった、…残りものの寿司を進めてくれる母の思いやりの有り難し…。(何か人のためになる様な事を、人に喜ばれる様な事をやってほしい、)と祖母は云って居た…、孤独等くそくらえである、)。
非常に暖かし。兎に角朝から晩迄の十一時間集注す…、水面を移動する油がくっついてひとつになるのが生命みたいといつも思う……、追い込まれれば否が応でも力を発揮せねばならぬ、次々と明晰に動こうとする、云いたい事ははっきり云う、余裕がない状態と云うものは少しは前に進めてくれるだろう、特別関心の或る事以外基本的に無口なものだから当方は詰まらない人間であろうが仕方ない、にしても私たちは皆生き残りであり生き残りとしてやるべきことをそれぞれがやってゆかねばならぬ、夜分のひどく火照ったからだにペペ・トルメント・アスカラール爆音で流れ出しクラクラするしかない、まるで舞台後の様な脱力感…。
酒飲まずにはやってられぬ、イヌイットの喉唄の映像目の当りにし吃驚、三ヶ月間太陽の昇らない土地で狩りに行った男性らに変わり家を守る女性たちは身を寄せ合い向かい合って互いの呼吸を確かめ合う其処にはユーモアもある、。/NHKでやってた梅若玄祥さん見逃してしまいショック…、此れ迄折りに触れ能舞台を観る事は在れど未だ玄祥さんの仕舞(…五分程の短い素舞…)を越えるものに出会ったことは無い、氏の芯の在る澄み切って響くお声が又聴きたい。

七日(曇り)
(夢、地下のカウンターだらけの狭いカフェーに大勢の人、上級生が新入生に次々と飯を持って行く妙な会…。海底のイマージュ)。
私はあの時ことばを失ったのだ…、ポッカリとあいた空白の闇を問題にしてゆくのでしょう…、(そう簡単に分かった気になるな、語った気になるな、簡単に名付けたりするな、…)、と声がする…、。/こんなにも五感が活用されない社会で良いものか…、。/常に周りの空間の流れを読み、無理なく気を配ってゆこうとして居た、…絶えず緊張した状態で居なけりゃならぬのはどうかと思うけれど、本来的には生きてると云うことは常に危機に晒されてるとも云えるわけで、其の中で笑いや思いやりを持つ事…、。空気が自己完結してしまうのは宜しくないです…。/裸体を基本にする処から始めなければと、…本日は一枚歯の下駄と着物を着て居た、。絶えず二つ以上の物事を同時に行い、考える以前に瞬間的に動くことで、身体の中の無意識の意識や知恵を開きつつ絶えず柔らかく集注して居る為の訓練。
ガムラン聴くと身体感覚が変質するのが良い。

八日(曇り)
(夢、仮の宿…は築百年の木造の元学校の二階の一室の様で其の辺りに住まう猫たちは近付くとひどく騒ぎ立て両手両足に爪を立てて来る。蝋燭だらけの教室、現在体育館で用事をしているHzyさんを舞台に誘う…それは愛の告白の様でもある…)。
物質が重力に引っぱられるよりもどこまでも限りなく遅くゆっくりと時間をかけ内/外を観察しながら動いて居ると様々な現象が様々な時間軸や質感や強度の様相を持って同時に生じては消えゆく様が手に取るように視て取れる…、感覚と認識と意識と云ったものの間に広がる距離を手探る…、…逆説的に"速度"の事を考えることとなる、。生活と触覚と律動と身体感覚のこと、。膝に負担をかけすぎているか…、安定的な位置を探しながら…、四でも三でも一でもなく"二"と云う不安定な処…、。単細胞生物と生と性と死のこと、。/文学や絵画や彫刻や写真は死の領域に在って永遠に生きつづけ一方で人は見離され老いて行く…、舞踊や音楽は生が毎瞬に熟すことで永遠を齎すものではあるが…。/氏が何故其処に向かってしまうのかと云えば其れは義務よりももっと本能に近いものではないか…、フットワークの軽い人、。
夜、土取利行×港千尋対談聴きに馬喰町へ、洞窟壁画は人類がまだ地球上に三万人程度しか居なかった氷河期に一万年以上のスパンで描かれている、洞窟と云う身体には五万年かけて一つの気流ー息が流れ石筍の襞がかたちづくられてゆく…、呼吸と音、洞窟と森の闇と太鼓の個人史、洞窟内で空間が一瞬にして反転すること、他…、。
深夜、部屋の一つの窓は絶えず開いてゐる、小雨の音がさめざめちょとちょろと鳴ってゐる、一つの方角より音の入りし事の奇妙さ、音に四方を囲まれているのでなしに、しかし其れも又…。/成瀬『おかあさん』観る、驚くべき場面に幾つも遭遇、。/ミンガスが自身の演奏の場を"ライヴ"でなく"ワークショップ"と呼ぶのは創造する過程を完成されたものとしてでなく聴き手とのやりとりの中で開いて行くようなものと認識していたのかしらん…、。

九日(雨)
(夢、私は酒で少し頬を赤らめてゐたのだった、廃墟となった様な薄暗いデパート風建築のがらんとしたエスカレーターを歩いて上る、東南亜細亜的場末の薄汚いがらんとしたカフェーレストラン…濃いエメラルドグリーンとイエローのタイル…は昼間、何時もより人多く繁盛して居た、TTが働いて居る、Tさんもキッチンより、アイスだかシャーベット頂く、)。
雨は微妙に変化し続けつつも、……、滝……、の一滴一滴……、一音一音がぱらぱらと打楽器の如く打ち鳴らされるので、。/其れは夢見る事への誘いでは無く寧ろ武装する事を要求し直接的に行動する事を要求する政治的なものとして在る…。建築と舞踊、身体、今になって昔の師匠に尋ねたい事は山と在る…、。美に就いて哲学でも詩でも芸術でもなく生命科学として検証しようとすること…、。
本日はおそらく人生で最も納豆を食べた日として記憶されるだろう、と云得る程に山と盛られた納豆ご飯を食らう…、(納豆は一気に掻っ食らうもんだ、)と云ったのは土方巽だが、此れはあまりにも多すぎて終いには吐き気をもよおす程であった…、。ピアノの音がしづかに流れる薄明かりの雨の店内。雨風強き街の横断歩道を紅白のひらひらした服着て歩く娘に見蕩れる、。
素っ裸で痙攣しながら直立する身体、右手と左手の隔たりの哀しみが再び互いを引き寄せ蕾と吊るされる、左手で円を描く遠心力、脱力してぶらさがるヒッコリーの棒…、眼球は絶えず文字を追っていた、片手と耳口は時に黒き電子機器に奪われる深夜、つげ義春宮本武蔵の話をする、。白石かずことサム・リヴァースのセッション流れる。/(全ての言葉の中で私が最も嫌うのは「夢」、)と云うのはデュラス、(夢は目覚めているときの私たちの精神があまりにも重く又は小心な為に把握するのが困難な知識をこっそりと私たちに送り続ける、)と云ったのはグロタンディーク、どちらの言い分にも頷く…、。雨の夜の救急車の多し、。

十日(雨のち曇り)
青白き大気に赤い傘と黒い衣服、水蒸気、。
『究竟の地』、舞う事・踏む事或いは下半身をバネの様に使う事・鎮める事・口唱歌・太鼓(及び其処に在る呼吸)…、生活の中の、人々が生きて行くと云う中での踊り、人々の記憶、。終えた後の話は「遠野物語」と「原体剣舞連」の朗読へと及ぶ、吉増剛造は(私たちはもっと踊らなければならないのだ、たった一人で神さまが遊んでいる様な所で、)と云った。
新宿にてロールキャベル頂いてから四谷シモンさんの人形を観る、一切の夾雑物がスッと消え去った様な純粋なしづかな"虚"体としての気配、人はおそらく人間の究極の姿を求めて人形をつくる、シモンさんの人形は異様なしづけさで透明な柔らかさを持って、時間に忘れ去られた様に佇む、未完成の脆さの美は永遠の領域に在る、球体への郷愁もあればヒリヒリと痙攣する様な聖痕も在る、。
武蔵小山で一服して向かう先、やはり人柄が出るなぁ、と…、音響や環境音録音等に就いて話を伺う不思議な出会い、笑顔、人の為に何かをすると云う事、。ひょんなことより図書館や朗読や暗唱の話となる、「たけくらべ」と談志の講談を始め、外国語なんか勉強するよりも先ずは自分の使っている言葉の響きから始めないと、と云われる、思わぬ宿題をいただいた…、。
シガレットと共に月を見上げれば何と奇妙な惑星に立って居ることかと感ず、生きる大地の闇の大気にうねり聳え立つ樹々の奇妙な形たち、ゆっくりと水の音の近付いて来る、何時しか蛙たちの声も聞こえなくなって居た、近付いて見ると桜の蕾が出て来て居る、この坂道はあの日上った坂道である…、あの時あの人が感じていた苛立ちはもしかすると今私が感じている苛立ちと近いものなのかもしれないなぁ…、何処を相手にし、何処を目指すかと云った問題、もっともっと型破りに…、(もっともっと徹底的に、)と云う昔の師の声が朝から聞こえて居た、。/あの日は死んだ伯父の唇に唇を重ねることしか出来なかったのだ、。/昔何ヶ月も此の曲のみ聴き続けていたペルト「テ・デウム」を数年振りにかける。近頃、身体を前のめりにさせて何ものかに憑依されたかの様に合唱に取り組み続けて居し日々の事を思い出した、。天を突き破って下さい、。三枚の写真届く。

十一日(晴れ)
(夢、グロテスクでエロティック極まりない叙事詩の様であった…、/真っ暗い急な坂道に明かりがちろちろ見える、……今にも崩れ落ちそうな埃だらけの古い小屋の暗闇に私は明確な何か光の様なものを見て動じる事もなく進み行く…、一体の観音さんがいらっしゃった、。Sg君と共に、深夜、写真の工房にて熱心に話を聞く、。寒き夜の火を焚く道の角に集まる人々は皆独自の空気を持っていた、古本屋の人、音の人、民族、私はウィンドチャイムの付いた売りもののピアスを三つだけ手に取って出る、)。
(あぁ、なんて訳の分からない夕暮れなんだ…、あぁ、なんて、なんてみっともない人類の平和なんだ…、)と絶叫される三上寛のことばが朝から反芻される。友川かずきさん聴く、。
和装で出向く、色々と話を聞いた、"まれびと"となること思う、(自然は淋しい、しかし人の手が加わると温かくなる、)と云った宮本常一さん…、。人が生きてゆくと云う事、土地、人と人は案外つながっていないと云うこと…、と同時に案外捨てたもんじゃないと思える瞬間のこと、すこしづつ笑いを取り戻すこと、、子供から年配の方迄…。マーラー交響曲五番、異様な集注力と緊張感…、フリーズされたものをすこしづつ溶かし五感を開いてくれるもの…に音楽は成り得るのではないかと云う…、…スーザンソンタグを思う…。
夜、阿佐ヶ谷へと浦邊雅祥さん聴きに、。此の方の姿は修羅だ、音を聴く以前に姿に魅入って居る自分に気付く、舞台に吹き付ける突風に吹き飛ばされそうになりながら危機に立つ身体から一音一音を成仏させてゆく様だった、サックスは身体の器官の一部である、其れが全て空気の流れる音だと云うことに驚き戦慄する、。(ギタァはもう少しパートナーに近いし、打楽器はより他者性が強くなる様にも思う…)、音を出すという行為は動くと云う事と結びつかざるを得ない、此の世の音ではない、ギタァにピアニカは異形の者の様だった、仮面で鉦を吊り下げて…、されど"うた"が在る事で人は生きてゆけると云う事が人間には確かにある、。ピアソラの緊張と弛緩。打楽器に関して、サムルノリとパンソリと富樫さんとの事を考えていた…。

十二日(晴れ)
(夢、巨大な文房具屋の赤鉛筆売り場。昔の恋人よ、変わらぬものだ、PCに書き残された文章たち、。懐かしの小さき町をバスで通り過ぎる、KTくんは高級中華料理店でコースメニューを三人分頼んだけども大丈夫だろうか…)。
ひどく風が強い、ひゅぉぉぉぉぉと唸る音、ぶるぶるぶるぶるとふるえる音、こうやって記せども虚しさだけが只積もるのみ、大気に気配の轟いて居る、身体の中の空洞があまりにひりひりぎゅぅぅと締め付けられて堪らぬ、此処に来て最早何も記す事出来ぬ程に無力感に苛まれるのは、あらゆることばの空虚さに居たたまれず、そうでもあれば口を噤むしか出来ぬのか、噤む事、喪に服す事、沈黙に耳を傾け、暗闇を漠と凝視する事、音の無と充満或いは像の不在と偏在の狭間に感覚を絞ってゆく事、…、口を噤む事、あの渦中で"お籠りになってお祈りになられ"て居し象徴のひとの居住まい、籠る季節はゆっくりとほどけてゆくか、其れでも此処では沈黙を決め込む前に言葉を紡いでゆくこと、それは耳で視ることであり眼で聴くこと…、。人類的なスケールで…、野生の思考、朱色の筆ペン、地形の視える音楽、原初的な螺旋運動、世界が歌をうたい出す瞬間を捉えること…、。
こんな通りがあったなんて、と、当たり前の風景に動揺する、耳の感受性の求むる侭に大樹の元へ辿り着いた、風のそよぎに触れたかった、杉の大樹、手を当て耳を当て、両手で大きく抱き見上げ、洞に身を籠し、額を寄せ唇を寄せる、友人であり両親であり帰る家よ、故郷よ、身体に刻まれたものを教えてください、帰り道に土に半分埋まった石にしばし手を当てた、。姜泰煥さん、サムルノリ、グールドと流れゆく、韓国のリズムが当方を突き動かすのは、地面から突き動かされる様な律動が強いからだろう、。

十三日(晴れ)
(夢、Trzさんと木製仮設宿舎、曇り空の下、離れの風呂へ行く、女性とは当然入れじ、。弟と試験受けに、。MYよ、電車の中で下半身は下着のみとなっており、其れは殊更驚くべき事でも無し、今でも…ひどく、ひどく優しいのだ、その優しさが居たたまれぬ…、)。
底知れぬ空虚、此処数日眼が開かない、(三一二を生きる、)と云う、風はびゅうびゅうと木の葉や洗濯物を強く揺さぶりかける、衣服のはためいてうまく歩けぬ、思い付きであれ人に伝えてみれば何か動きだすものであった、賢治的ヴィジョンの再評価耳にすること多けれど彼の耳の感性、幻視してゆく力を育てし風土の減衰して久しい、熊楠も含めた処で其の次へと越えて行かねばならぬ、其は"夢"ではなく生きざるを得ぬ現実の地平即ち"業"なのだろう、充ち充ちし声に黙って全身で耳を研ぎ澄ませ導きの方へと歩みを進めよ其すれば開かれん、…、対話、対話、理不尽で在れども筋は通りし事をもって爽快と感じて置こう、只管万葉仮名で文字を書いて居た、帰り道の闇の中、身体を垂直に滑行させ様とす、輪郭の枠からはみ出て行きし事、アストルピアソラの音の切れ味に息を殺して聴き入った、夜、母より通信在る、自由とは尋常でなく大きな責任の上で初めて軽やかに浮かび上がるのでしょう、流浪すること、沢山のひとと土地と出会いながら、。仲代達矢氏の「赤秋」なるドキュメンタリィが素晴らしくてしばし惚ける、失うこと、老いること、はじまること、洞窟内部の耳無し法一の様な寝室に慄然…、。雨風を防げる場と温かい布団と少しの水ト食物があれば十分、寸法の話、。

十四日(晴れ)
(夢、父まで黒い服を着ている、)。
天気良い、新しき人と時間をかけて見る、。黒から紅へと衣替え、まるで今迄の歴史が長い喪の様、。
『ピナバウシュ 踊り続けるいのち』、ピナの透視眼…、踊り手とは来るべき人類の姿を体現して居る様に感ぜられる、"身体=言語"として全身で他者や自然や建築や空間、世界そのものと対話して行くのが当方の考える踊り手と云うもの、"言葉"と云うものをもとの生まれ落ちた瑞々しき偽りのない姿に還す処から、当然、美しい踊りは誠実さと結びつく、其処に偽りや弱さや虚飾があるとしても其の偽りや弱さや虚飾自体への誠実さこそ胸を打つ美しい踊りへと導く、こうした身体と云うものが持つ可能性こそ人類の希望ではないか、身体(=言語)の動きの可能性をもっともっと拡張して行くと云う事、踊り手だけの問題ではなく、先日吉増さんが仰っていた(私たちはもっと踊らなければならない、)と云う言葉、(踊りつづけなさい、自らを見失わないように、)とピナは云う、昔彼女がジプシーと唄と踊りに就いて話していたのを読んだ事思い出す、あなたをあなた成らしめているものを問いかける、……、『春の祭典』を観ていてフッと賢治の事を思い出した、動きの律動と声と呼吸…、人間を越えたものとつながってゆくこと、バタイユめいた普遍経済的循環…、観る者の中で眠っていた細胞をうずかせるものがある…。
『世界最古の壁画洞窟 失われた夢の記憶』、しかし何と云ってもヘルツォークが一筋縄で行かぬことを決定的にしているのは最後に唐突に現実に引き戻す原発シーンの挿入であり、大いなる問いを突き付けて終わるのでした、個人的には先に見たピナの映画と符合するものがある…、それはやはり身体性の問題で、壮絶な景観のある場処の近くに壁画は在る、洞窟に入って変質させられる人の身体及び意識…、世界と結ぶ関係性の質の問題、洞窟とは様々な意味で時空を超えて出会う場処、絶滅したネアンデルタール人が持たなかったものが"象徴性"と云う概念であった事は重要な事で、人が此処迄生き延びて来たこと此れから何処へどの様にして向かって行くかと云った時の人の可能性は象徴性と結びついた想像力の拡張にあろう…、女性の下半身に動物の上半身や頭部を合体させた画や像…、誕生と死、精霊との対話、…。


十五日(晴れ)
此処数日"経済"と"家"に就いてずっと考えて居る、人間の限界に就いて、。
原宿にて、森林のざわめきの空間全体を揺さぶるスケール感、鳥たちの鳴き声、上空へ向けて笛を響かせた、大地を踏みならすことがもっと流暢なら良いのに…、坐して上半身で動いて居ると人が寄って来る、�@古代からの恩寵、�@音の念と録音、�@此の時代の技術で身体を如何に捉えるか、�@自然音と目指す音、�@関西事情、等々に就いて、。響きと足腰と感情、インタヴュー、。観世寿夫さん聴く。
                                                十六日(晴れ)
(夢、押し寄せて来た巨大な波はすすきの姿に石化して其処に在った…、Hgn君、K洞窟の様な食堂にてH君Iくんと片付ける、ビールの本数、窓の外を黒灰白のグラデーションをつくる雨が降る、。凄まじく巨大な毎年のフェス、民族?学校、見下ろす、)。
黒い背広のおじいさまの動きの遅さに見蕩れる…。力を抜いて音を立てずに丁寧に動いてゆくこと、又、リズム・テンポを意識して空間全体の流れと関係性を感じ、思いやりに基く……、螺旋の流れをつくることで瞬間的な強度と柔らかさを探る…、。生きてゆく為に、生き延びる為に踊る、。思いの外にジョージ・ラッセルが馴染む。
上半身を運ぶ舟としての下半身、花に成ること…、。/二足歩行と出産及び育児、生殖能力を失った者の役割、。二足歩行からの脳の発達から身体的感受性の問題、"投げる"事に就いて、衣服の呪術的な力と憑依に就いて、"眼"と云う裂け目の力…。/酒を食らう。百年後千年後への想像力、。

十七日(雨)
(夢、Uさんとの再会と分かれ、車に乗り去って行く、涙、きれいな人だった…、)。
ことばと動き、或いはからだとイメージ、。今月になって初めて布団に入る。

十八日(晴れ)                                         (夢、隣の席に居たNさん、絵の上手い人だった…、。古く汚いホテルの一室の様な部屋、発たなければ、)。
人間が生きてきて此れからも生きてゆく事、。
佐藤忠良さんの番組観る、彫刻とは見出すこと、確と根をつけて立って居ること、沈黙する像、流れている時間の安らぎ、祈りの仕草、顔とは咲いた花、手で触る事、其の痕跡…、周りの自然や環境を愛着を持って浮かび上がらせる、変わらぬ人の姿、すくっと立つ人類の姿、人間が生きる力、生き直す力、(隣人に対するいたわりのない芸術は全部嘘だ、)。
久々に湯船にゆっくりと浸かる、窓を開けると冬の暮れの匂いが広がった、目の前の高層マンションの部屋の明かりは少ない、身体を液体に還して揺れていた、…、好きな人、好きだった人たちの事、一緒に時間を過ごした沢山の人たち…、。
深夜一時過ぎに環七沿いの病院迄タクシィ走らせる、何十年振りだろう、こうして東京の町を二人タクシィ後部座席で移動するのは、…真夜中の病院で待つ、時を過ごす、…、持ってきた一本の水、当方は思いやりなき偽善者でしかない。
                                
十九日(晴れ)
(夢、「猿の惑星」の後の様な世界…、鼈を下から見上げた…、)。
電話に起こされる、何処となく頭と眼球と鼻元が不調気味ではあるが、"病は気から"、と云う言葉に今更の様に、。毎週月曜にお見掛けして居た夫婦を見なくなって久しい…、古い日本映画や文芸批評から経済の話等を夫婦でなさっていた事の思い起こされる、あのモダーンな髪型の夫人が大好きだった…、。一回り以上年上の人に気を使わねばならぬことの面倒なこと、よくもまぁあの様な性格=世界の捉え方で何十年も生きて来てストレスも堪るだろうししんどいだろうなぁと逆に感心してしまう、プライドの重さ、。カツカレー食らう。渋谷迄歩く、ラヴェルピアノ協奏曲を口ずさみ続ける、タルベーラを観る女子高生、ベーラの名も映画のタイトルも分からずに観に来ている老婆、瞬発力、。ギドク『アリラン』観る。
赤き毛筆の筆先の空気と墨を多分に含ませた空間の柔らかさしなやかさ、ニ到達したい、何故片仮名か…語らされているからではなかったか…、混沌の中に溶解するvisionを言葉にすることで明瞭なものとして輪郭づけ其を文字にすることに寄って意味を封印=定着させる事で更に其のvisionを深めて行こうとする、ただし絶えず様々な風の吹き抜けて行く可能性の余地を残した状態に置いておく事…そういう事なのでしょう、丁寧に言祝いでゆくことと速度の問題、nihilismを越えてゆくこと…、朗読の音の響きと抑揚と律動と声の質感の問題、キャメラを置く事で現実に層をつくり環境と身体性の変化を注意深く見つめながら言葉を紡いでゆく…ことで獲得されてきた言葉の身体性なのだろうと……、文字とは呼吸だ、…呼吸の仕方と寿命とは関係しているのだろう…、即心仏考再び、人間を中心に置く事の限界と人間を周縁に置く事で広がる可能性、打楽器奏者と沈黙と耳、人や自然や環境を観察する事、。
キム・ギドクのセルフドキュメンタリィは一体何だったのか…、ギドクは映画の臨界点に到達した様に思え、然れど其れでも其処にはギドクの過剰な暴力性とロマンティシズムが漲っていた、ギドクは映画と心中しようとした、否、心中した、ギドクは現実を生き直す為に映画と心中しようとした、否、映画の中で自らを殺した、徹底的に自らを問うた果てで自らをひとつひとつ殺して行った、そうする事でしかギドクは映画を撮る事が出来なかったし此の先撮ることも出来なかったろう、そんなになってもギドクには映画しかなかった、映画に殺され映画に生かされる…、映画に絶望させられ映画に希望を与えられる…、ギドクの姿である、。映画を、詩を、音楽を、踊りを、解体する処から……、新しい言語を獲得して行く為の……、生き直す為の……、。/手拭いを頭部に縛る…、困難さとは自分で招いているものだ、。ガルシア=マルケスとおばあちゃんの昔話や戦争体験の話…を、何故、今迄忘れていたのだろう…、。漸くアンドレイ・タルコフスキィという文字が自らの紙面に再び現われて来た…、「裁かるるジャンヌ」は数日前より加速度的に…。師匠が表彰されたとの話の入って来る、。水を飲み、水を出す、。

二十日(晴れ)
ニッポン国古屋敷村』、置き去りにされ今や消えて行かんとして居る嘗て何処にでも在った風景、小川紳介は其の様な土地に残る営みを、在りし日の姿を、其処に生きる人間を、溢れんばかりの愛情を込めてフィルムに収めようとする、一年間を通して土地と人と共に土を触りながら、語り部の様に坐する婆さんはごく普通のおばちゃんだと云うのが良い、南の山より降り来る冷気シロミナミ、気候や地質、稲の開花、炭焼き、蚕、縄文土器、戦時中の話、花火の記憶……、古屋敷村に在りし日の日本の縮図を見る。坂道を下った店でスーラータンメン食らって帰る。

二十一日(晴れ)
(夢、体育の小さなおかっぱのおばさん先生は嘗て体操〜舞踏をやっていた人らしく、足があまりに美しく上がる事に驚き禁じ得ず、。Sで出会った女性に誘惑される…、。F先生の処、Kちゃんは最後の反省で"Bちょ"との内輪ネタで茶化した事に対し当方エラソーに(閉じている、)と指摘、雨の中スタバへ非難、赤い煉瓦の脇に置いた荷物へ財布取りに行く、赤葡萄ジュース頼む、みな二階に居る様で先に帰って居る人もチラホラ、。英国に居た)。
少々風邪気味。
三時間四十二分の『1000年刻みの日時計 牧野村物語』、十三年間の歳月の中で土地と人々に寄り添い、手探りで試行錯誤する自分たちの生活や、土地に残された多層な記憶を撮って居るうち、其れ等を纏めようとすれば科学映画・民俗学的映画・考古学映画・時代劇映画・ドキュメンタリィ映画…と云った様な多彩な表情を持つ貴重な貴重な大作となってしまった作品、兎に角、エンディングで環となって笑顔で手を振り歩き続ける村人たちが全てを象徴している…、いきなり土方巽が出て来たのにも驚いたが、流石の身体の動き…、。富樫さんの音を聴いた後に不思議とミルトン・ナシメントが聴きたくなった…、風や土の匂いがする処など案外と近い世界かも知れぬ…、笛と打楽器…、。『猫楠』読む。

二十二日(晴れ)
(夢、薄明かりの緑のコンクリ打ちっぱなしの場にてなんちゃってアイドルを囲む人々、Kさんは噂を聞きつけて来た様だが今回はハズレだろう、警察来て連れ去られる女、ストリップ劇場にてカシスオレンジ頼む、本日の目当ての女性は和服ではなかった、開けた空間は東海岸の様であり、私の祖先は朝鮮より来たりし遣倭使だったとのこと、船を見せてもらう、小さな津波が左右から襲い場は騒然とす、)。
午前四時起床。春が近付いているからだろう、冬の蓄えが吹き出物として出て来る。/踊るように働くのが最も良い、空間全体の流れを掴み、先を読み、無駄な動きをなくす。
小石川にて沈丁花の香り、久々に喧嘩らしい喧嘩を見る。笛と打楽器…と云えばエルメート・パスコアルでもあるなぁ…、。/関係性とは"生もの"なのだなぁと、…やりたいこと、でなく、やらざるをえぬこと、である、。

二十三日(雨)
(夢、隣の伯母さんが処分に出していた書物の中にずっと探していた小泉文夫著作集より「鼓(世界中の鼓に就いて)」の橙帯の巻を見つけ譲り受ける、再度研究室に入ろうかと感ずる…、あれは倫敦にある白く自然光の入る地下の部屋で人を待っていた…、一階は硝子張りの緑のある美容院の様な部屋であり先に若い人二人来る、TTくんがギリギリに訪れたもので、もう来ないかと思った…けど彼は何時も時間丁度に来る人だった、硝子の向こうは傘を差す人たち、雨模様である、)。
雨音の中で夢の口述、もはや夢と現の総量が同じである心地、南方熊楠野口晴哉野口三千三荘子等のことばの影響もあり…、。
共同体に於ける食料と資源、技術、地域経済、価値観の変革、百姓、相互の贈与と消費の循環より螺旋状に開いてゆくこと……、。ドラヴィダ人と踊りのこと、。
アナーキズム…か…そっか…パンク…、男の人と女の人は恋の話に触れればたちまち少し意識する、。ひとりで書物めくる美しいひとにそっと差し入れす、此処をまるで地の果ての様にして迎え入れる…、。疲れて居る時にこそ律動に身体を委ね動かすと楽になるのは凝りが解れる故であろう、。
中村雀右衛門さんを偲び幾つか映像観る、もはや人間と云うより浄瑠璃の人形の様に見えて来る程に寸分まで徹底された型の美、僅かな動きの中に言葉には尽くせぬ何と豊饒で繊細緻密なこころの動きの宇宙が広がっているであろうことの美、歌舞伎は型の芸術と云われるけれど此即ち演じるのではなく型を生きると云うこと、型に乗り移られると云うこと、特に女形こそ究極であるのは其故、雀右衛門さんの謙虚さと華やかな存在感の同居、そしてとてもでないが八十代には見えぬ瑞々しき可愛らしさや凛と張った美しさ…。
近頃思い出すのは大昔に観たJZEMのコンサートにて一瞬の隙間にスッと客席より間の手を打った、あの時の"息"のこと、。音を立てぬ動きのこと…、。
東北の祭りの映像を幾つか、此処にも笛と太鼓があった…、共同体としての生活を支えていたもの、代々受け継がれて来たものだからこそ絶やすことなく、確と地に根を踏みしめしなやかに…、縦にも横にも末永く伸びる縁、神が悦ぶ姿とは土地が悦ぶ姿でありちっぽけにも愛らしく営み暮らす人や動植物や亡き者たちが共に悦ぶ姿であると思った…。

二十四日(晴れ)
会議で板挟みに会い大変そうである、喧嘩に警官、パスタ貰う、彼の人ともっと上手く話せたら良いのにいつも話題が見つからぬ、教えを乞う、。些細な譲れぬことを譲らぬと云うこと、。
「ボレロ」聴く度にベジャールの振付をイマージュの中で踊ることになる、太陽の如く放たれる生命力に全身で震える、此れが芸術と云うものの役割であろう、此処から再び生きて行く為の支えと成り得るものとしての芸術、。

二十五日(晴れ)
編集作業。百貨店十階の食器売場、ウェッジウッドのワイングラス、珍しき三人で、新宿の友だちの家の様なカフェにて台湾の占いの話等、。自立と経済。らんぶるにて渡しものと近況報告会、"重さ(物理的でも精神的でもない意味での)"と"握手"に就いて、集団と"個"に就いての話等面白く自分なりに身体で深めて行きたし、人間は日本人は社会はこれから何処へ向かうか、カルボナーラと珈琲とドヴォルジャーク、。

二十六日(晴れ)
朝より三人の人間に微笑、。宝塚客ひっきりなし。
三里塚 第二砦の人々』の映像と音の臨場感のすさまじさ、長回しは渦中にあって不意打ちを捉えつづける、抵抗のため自らを鎖で縛りつける農婦の姿から一八〇度パンして広がるもくとたちのぼる黒煙と遠方に待機する見渡す限りの機動隊、子を求め泣き叫ぶ母、切り倒される木、人間を踏みにじる人間の"もの"であることに驚くほど、営んで来た土地と暮らしの延長にある闘争の姿、はにかみ、。
新宿の台湾料理旨し、。夜行バス。三列に並ぶ天体。リズム欲してグナワ音楽ばかり聴く。

二十七日(晴れ)
(夢、キラキラしたホテルの中二階より、エレベーターと全裸、某所で会いし女性、笑う人、部屋迄屈み駆ける、。電車で降り立つ薄暗い土地、石階段の一角、懐かし、)。
電車にて赤児と戯れる、。空気感が優雅な人、片言のフランス語で話せば少し仲良くなる、"おばさん"とは面白い生き物である、十時間休みなし、和風ハンバーグ食らう、BBCのオペラ、黒は風通し良く、。
爆音でsim聴いて帰る、。チャップリン観るも人間賛歌は分かるが"過程"にあるべき人間の心の機微をまるで描けておらず、コメディとは所詮そういうものか、。

二十八日(晴れ)
(夢、土と木と藁の村、彼の人の教室、土間にて巨大な鍋で汁粉つくる、生姜を入れてしまったが大丈夫か、)。
起床して無性に虚しく苛立つ、どう仕様もなし、されど閉ざさぬこと、手拭いで頭部を縛り気合いを入れて起動さす、。
『どっこい!人間節』、酷い環境にある労働者たちに人間味溢れた誠実さや懸命さや虚しさや葛藤を見る、暴力も優しさも、誰よりも人間らしい、個人的に小川作品で一番好きかも知れない、。元娼婦街、大型トラックを運転する小柄な女性、ビーチボーイズからドルフィーと日本家屋の間取りの古本とカンボジアカレー、。煙草吸わいつつ苦悩するしかあらず、。高層ビルの裂け目より見える巨大な下弦の月のくっきりと美しき、。刺身食らう。死ぬ時は呼吸困難の様な気のす。

二十九日(晴れ)
(夢、教室は試験、私は受ける必要はないもののPPTRの舞台映像見たさにこそっと奥の隅のYmgsさんの影に上手いこと屈み隠れる、されどインタビューのみ、。Aksk先生曰く(照明が明るすぎる)、人は皆高台より見下ろすが同じ目線で目なければ何も分からぬ、。急な坂の向こうに絶するほど美しい絵画作品は闇に浮かぶ林と其の奥の黄色い花畑、よくよく見ると其れは立体の造形作品、坂を下ると蝉の抜け殻に触れる、降り立ったは照明も消えた赤煉瓦の体育館の一面硝子張りの廊下、外に出て歩き行くとバレーボールをする人々で私は審判を買って出る、其処に在りし誰が吹いたかも分からぬホイッスル吹く、トイレにて縦縞エレガントなシャツを来て鏡に映る、詰まりそうな便器、。下北沢、Atmの家、氏はおらず、ヤクザ連中来る、母様に挨拶して帰る、)。
集注と視野の狭めと脱力と緊張と明晰さとを同時に保つ、生き延びる為に矛盾をつくるものである、液体として生きる、時に身体の中に固体をつくり時に気体となる、日常が鍛錬の場。
一時間の正座等お手の物、身に付ける為の人一倍の努力…、矢張りずば抜けた努力が出来ること自体が才能なのでしょう、一人一人が輝ける権利を持つ社会であるべきなのは云う迄もないけれど自ら輝く場を探そうともしない人間が多いことに驚かされる、自分を耕せ、。
とある探し物の為香水をムエットす。歌舞伎町にてどうでも良いラーメン屋、吹き溜まり、。
祖母と電話で仏教と能と農業の話、元気そうで安心す、。

三十日(曇り)
(夢、物影から見え広がる世界、溢れる人、)。
此の列島の風土から引き出されし音、強き風吹き荒れる中の一本の木に手を当てる、猫が悠々と歩く、「道成寺」、久方振りに大日如来に挨拶し、何時ものように見上げれば木々の葉の狭間に散りばめられて煌めく満天の星、お不動さんに水をかける、煙りが揺れれば身体も気体に近付くのである、。
産み落とした一つ一つの音に対して其が消えて行く最後の瞬間に迄きちんと気を配ってあげられているかどうか、一音一音に多様で豊饒な世界が映えているかはすぐに分かるものである、。この人良いな、と思ったその日に其の人は街を出る、と云う事があるのだ、と、ちょっと淋しい、大荷物抱えて最終電車へと急ぐ人を見送る、秘められた赤とレースの付いた財布、笑顔、。"色もの"のプロと云うことと徹底と覚悟、。
大瀧詠一アメリカン・ポップス伝 エルヴィス編」聴く、「スマイル」聴く。子供は宇宙人。

三十一日(曇り時々雨)
(夢、冬の少し明けた農園にて、畑に残りしジャガイモを掘り起こしている、手伝いに来ている人たち、Idtくんと十数年振りの再会、。半屋内プールの浅瀬の片隅にて野菜だろうか、を洗いながら服を着た侭に韓国人の女の子二人と話す、。倫敦郊外から更に郊外への電車を待つ、酷く混んで居る、)。
思いがけぬ人よりメール、他者を大切にすることが自分を大切にすると云うこと、どうかお元気でね、。文字を紙面に記すと云う何時もの行いに何故かしら身が入らず口述を録る、雨風と鳥の声が乱れ飛ぶ中、漸くとヴィジョンの見えてくる…と云うよりも覚悟の据わって来る、。
シテと地謡の関係のこと、。"型"…面影と幻とイマージュと原型、積み重ねられた記憶の現実を映した夢の形象、走馬灯のように豊かな記憶=夢をたどる速度を備えたものとしての、。人類が二足で直立歩行になったと云うこと、背骨と神経が下半身から樹の幹のように重力に対して縦に伸び直立すると云うこと、地面から上空=太陽へと伸びること、。個体維持と種族保存という根源的な二点を越えた処に何かを求めると云うことは一体何か、という問いに就いて、。
此所に居る全ての人たちが皆それぞれに在る人と在る人との愛の営みに於いて産まれどうにかこうにか育って何十年と経って今此処に居るのだなぁと考えると何だか感慨深くなってくる、。メッセージを発し続けること、の報いが求めずも本日数年越しに来たりてもう思い残すことは何も無い、との事、不思議な縁で私はそんな氏(師?)のそんな姿と言葉とを身近に見て触れさせて貰って居ることに感謝す、。何時までもぶっきらぼうだけれど純な少年の様な人、可愛らしさのある少女の様な人、いいな、と思う、誕生日ケーキをお裾分けしてもらう、。
風のせいで其処いら中にプラタナスの実の散らばっている。寺尾紗穂さん聴く。