山田有浩 / Arihiro Yamada

Information of Arihiro Yamada (dance, butoh / ダンス, 舞踏)

二月。








1日(晴れ)
(夢、覚えていたも忘却す)。
強き風に何台もの自転車が飛ばされている、太陽の光の紙面をうつろう、新聞紙を捲る様に書物捲る。
いつも着ている穴の開いた黒きタートルネックは亡き人の形見なのであった。あの日からもうずっと年の瀬の様なしづけさ、晦(月籠り)と云うけれど、そう、未だ時は篭った侭…只待つ、保つ、秘する、守る、受け入れる…其の様な刻の渦中であると…、(忘れていいことと、忘れちゃならんことと、忘れなきゃならんこと、、)と云う或る映画の中の台詞を想う…、。
此処数日、外出時はほぼ手ぶらで財布と携帯電話とボロボロの吉岡実の詩集だけ持って歩く、本日は吉岡氏の敗戦直後の日記抄を捲る、。
少し前までの方言と"国語"の話、敗戦前日の話等、聞こえて来る。することなくて少子化やら今後の日本経済やら介護医療制度や食や住やらに就いて等つらつら語る…。が、現代に生きる者の苦労など昔の人にとっては屁でもない様なものかも知らん、生き抜いて行こうとするバイタリティ無き者は脱落して行くと云う只其れだけ。 白き半月が浮かぶ夜、太陰暦は良い…、酷い咳が止まらぬ。
『真実一路』を見て、ふとオーソン・ウェルズの衝撃のある一側面があるなぁとモダンな格好良さに痺れる、でも川島監督はつくづく人間を直視した鋭い撮り方をする其れがこの方の人間愛なのだと改めて感ず、事実や嘘を越えた真実に生きようとすることの困難さ、。
知覚や記憶を司る大脳新皮質からの百五十三人の集団、氷河期と大きな集団のネットワーク、。チョコレエト頂く。何故か今週もハロプロのドラマに遭遇したので見る。電話越しにピアノの音、有難し。

2日(晴れ)
(夢、オーガニック珈琲カフェーのエントランス、賞金額高きパーカスの大会、見ず知らずの人々と共に弱音の美しさの在るセンス良きボッサ風のセッション心地良し、二階から見下ろす吹き抜け、私は何時しか店員で古き知り合いの客と余計な処にストレスやエネルギィを使わずに生きられたら良いのになかなかそうは上手く生きられないものよねぇと話す、大きな消しゴム持ち去られる。巨大な車輪の回転する妙な対戦、水辺にて待つ、。三階で強烈な地震に遭いもう駄目かと思って起きる)。
アルトーのファン・ゴッホ論より狂気に就いて、間章の書く(新しく別な何か〜the shape of something to come〜)に就いて、鎮魂としての詩、客人を受け入れることで自らの自己同一性を逸脱して行こうとすること、可傷性と脆弱性、…。身体に森羅万象を映して動くにはまだまだ程遠きこと痛感。自分の形式、文字は祈りの様に、言葉は呪文の様に、。社会に於ける安心安定と其処での犠牲や矛盾や隠蔽、百人中五六人の孤立者の為の人類的普遍に根づいた問いかけとしての行為、。
大日如来さんに挨拶、にしても二年前の工事以降、似つかわしくも無い黄金の装飾品なんて着けられて、こんな余計なもの着けたくもないだろうに、見るにつけ如来さんが可哀相になりよじ登って捨ててあげようかと思うくらい…、掴まりそうなのでやらないけど。大鳥さまにも挨拶。
駅から帰路の大通りには闇があまりに無さ過ぎて逆に怖くなりひとつ奥まった急な坂の裏道へと遠回りして行く。それぞれの人が持つ時間の流れは異なっており複数で歩く時其れは掛け合わされ別の時間の流れが生じ其れに伴って空間の質も変化するワケで、此の夏に歩こうと考えている場処を歩く時に私が求めている時間と或る方が持つ時間が近い様な直観で一方的なラブコール送る。竹薮を踏みならして歩く、寒さがおさまれば此処で踊れるのが楽しみ、大樹に触れ脈を視る、闇に浮かぶ樹木は昼より存在感の凄みが増して大きく見える、凸凹した地面を歩くと落ち着く、以前よく戯れた水の流れに久しぶりに会う、広いコンクリート広場の一角に不思議にも大きな石がひとつ落ちている。
兄弟揃ってショートケーキ頂く。思いの侭、と、明らめ裁ち切ることに就いて。
黒澤『夢』は昔から酷い駄作と思っており十年程振りに再観してみると矢張り映像の力や緊張感や演出も残念と感じざるを得ぬけども、途中からの「トンネル」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」等が訴えかけてくるもののアクチュアリティに脱帽、原発をテーマにしたものが正に今の現状を其の侭映した様で寒気覚ゆ。

3日(晴れ)
朝、山の見える港町から包み届く。
フォーを食べる。私、頼りがいある時もあるけどもなんとなく自分勝手だわ、と。
洒落た街は肌に合わず居たたまれなくなる…、寒き駅前で人を眺めつつ人を待つ、(荘子なんて読んでる人初めて見た)と。"見ようとする"のではなく"見ないことができない"人。(薦められたものはロマンティックなのが多かった)とのことで、そう云えば元々は歴史的文脈や其の孕む重要性からセレクトしたけどそんなの私が選ぶ意味がないと考え改め、気取りは排し単純にグッと来たものを選んだものですから、そりゃ私の性分が筒抜けでちょっと恥ずかしけども、。鶏のラーメン美味し。
帰りの電車で顔を扉に挟まれたる人、隣の女性と笑ってしまった。小さなスピーカーからチャーリーパーカーwithストリングス流しつつ薄暗い坂道歩いて帰る、公園で煙吸っては月見る心地。

4日(晴れ)
(夢、森の人々、バウハウス風の隠れた街、階段、格好良いジャケットを売ってる若い男性、)。
電話で起こされて急ぐ。なんとも寝ぼけたままの様な一日。
日本の自然とエチオピアの自然のスケール感…。革命…。臨床…。富樫×佐藤の2002年のデュオを観る、名人芸の様な趣すら在り、と云うのも其処に在ったのは闘争する姿よりもただ黙々と"判っている"音を的確に置いて行こうとする様な姿であったったから。若かりし頃と比べれば当然に爆発力も瞬発力も落ちているが、より"自然"に呼吸する様な域にあり、音の優しさであった。富樫さんが一瞬"叩かない"処など良かった、何よりもまず聴いている人だということが。早坂文雄「交響的組曲ユーカラ」聴く。
取るに足らなさや不完全さがとても嬉しい。

5日(曇り)
(夢、橙色の薄灯りの部屋、ひと…)。
夕刻、古本屋からパン屋の喫茶で半年振りの人と初対面の人と五時間、出生の秘密を何処まで遡るか、宇宙の履歴書として、怒り哀しみと生命の律動、怒りと慈しみは隣り合っているように感ぜられ…、芸術と時間と記憶、不可能性、等々…、。真夜中の街を四人、細道を抜けて、恋愛話大好き。
人の部屋に泊まる、ボクシングの映像を見つつビバップやDJや古武術や舞踊等に繋がってゆく。極限の人間を描くもの、。

6日(雨)
(夢、ハープを奏するひと…)。
白き朝に川に沿って浮遊し行く白き虫が消えてゆくまで見送る、神社、寺の公園、。
早朝喫茶でトーストと卵と珈琲。指先の作業、忘れること、雨音が心地良すぎて朦朧と酔う、御座。
素敵な紅茶を頂く、舞踊病患者。夜、大島渚愛の亡霊』は全て美しい、。坂東玉三郎に寄る熊本八千代座での新作舞踊『春夏秋冬』、玉さまの新作は大体に於いて話の筋は取るに足らねども人間の情念や悲哀と云った人を根柢から突き動かすものを深く幻想的に描こうとするものが殆どで、其処に佇まいとしての淑やかさ艶やかさや奥ゆかしさの気配が立ってくる、此の舞台はヴァラエティに富んでいて豪華、中でも一等思い入れ深かったと云う「夏」の燈籠の舞いも美しかったけども個人的には「冬」の舞いが色彩的にも絶世であった、と云うか「白鷺」を舞われると弱い…。

7日(雨のち曇り)
雨、水の音は金属類の音と周波数的にも近しい様な感じを覚ゆ。空想する、待つ、静けさ…、少年の好奇心と太古の瑞々しき感性、…、息を潜めること、衣食住に於ける"行"と「型」のこと、。土方巽に思いを寄せる。
夕刻、隣の女性の時折の仄かな香りが今迄出会った香りの中でも最も雨に合う香りと感ぜられ魅了され銘柄を尋ねると随分昔から最も気になり続けていたゲランのアプレロンデであり驚嘆、香水のコピーは「雨上がりの陽射しがキラキラと降り注ぎ露に濡れた草花が芳香を放つ」と云うのですが、たまたま微かに嗅いだ者にまで正に其の様なイメージを呼び醒ませる香りを発明した調香師のセンスと技量ってとんでもないものだな…、しかし私には高級過ぎる…。
刺身を食べつつ「愛染かつら」、今はなき"国民的映画"と云うもの…。喉にモノが詰まって一瞬呼吸が出来なくなり驚く…。

8日(曇り)
(夢、真夜中の飛行場だか電車、Mと別れる、。部屋、弟の机、同人誌完成しており感心す、。サニーデイ二十四時の撮影、。学校、漢字の対戦の末、仕舞いにはドラゴンボールのパクリ…?)。
曇り空の耳元ニ広沢虎造、どうも久々であると身体も頭脳も錆び付いて居る様だった、母と同い歳位の女性の穏やかな笑み。お籠り遊ばされしひと、。
白い肌の女…、首筋の黒子…、仄かに紅く染められたシルクの髪に、垂直に切り揃えられた前髪、美しいのは死体の肌か…。ブルガリアンヴォイスを聞きつつ小暗い場処へと還してゆく音=詩…、「ほ」の字、雪隠の鏡に映りて身体が鉛の様に難く重い…(軽やかにエレガントにダンサーの様に歩いてゐました…)といふ声が未来より、、(早坂さんの『古代』は『未知なるもの』ということだったんじゃないか…byTT)、折口さんの「古代」――、。高砂族の歌を聞きつつの闇の斜面…、大太鼓と小太鼓、土を踏み馴らし天に向けて高音を伝うる…、。牛乳と生姜と冬野菜の鍋。藤田嗣治に就いての番組見る、肌の色…、温度や皮膚の奥に潜むもの…、蚤の市、旅…、巴里の喫茶にて黒衣服の女、人口の少ない町、椅子が欲しい…、思わぬ処で曾祖父と出会うと云うことが…、最晩年のキリストと聖母、。 もう一度全力で考えはじめること、少しずつ少しずつ後の姿を浮かべ…、嗚呼…未熟だ…未熟だ…まだまだ程遠い…、程遠く長い……。

9日(晴れ)
ブルージィなギタァのリフを。
テキパキとは働かぬ事のもどかしさ、己が、然れど勝負する場で出来れば良い。
夕刻の空の悠遠さ、 モードの変換は浅川さん聴いても浸れず、厠で煙草見つけて吸わう。
或る女性を見ていてエレガンスももう末だなと思う…、速度に対応しきれぬ、。
多数の弾き語りを見て感ずるのであったが、"気持ち"と"声"と"言葉"と"形式"と"場の空気"が悉くズレているもの多し…、当然噛み合わず滑稽さが。イマージュと声の質に就いての話、問題は言葉の意味ではなく言葉の質がどこまでのイマージュを開く事が出来るかにかかっている、。私が居たと云う事の欠片が、
夜の公園にて一服、樹々に触れる、水の闇に歩み寄る。重力とは時空のゆがみ…、か…。グロタンディークは夢に就いて語っていた、。欲望を容易に片付けてはならない。少女時代って今のどのアイドルと比べても色んな意味で気合いと覚悟の桁が違って吃驚、ヘタなロックやパンクバンドよりも己を奮い立たせ闘ってる様に見受けられる。

10日(晴れ)
(夢、プラネタリウム的な移動するモニュメント。/美輪明宏、YHにN君、最後尾から最前列へ自動的に移動す、ミッキーマウスのレントゲン映画、思ってもみないヘンな児童イベント。途中で用事あって抜け出す。トイレ、ゴダール、でも美輪さんのシャンソン素晴らし、。/母の運転する車の恐ろしさ、ぶつかりかけるも切り抜ける、。/帰って来てみれば行方不明者、城の方へ、校内放送、。深夜二時点差だけ置いて行くのだ、忘れない様に、あ、忘れ物だ…、後で撮りにこなければ。でも荷物持ってきてくれた女の子ありがとう、。/深夜に帰ってくる、ホテル、落とし物あったとのこと。地下の四階へ行く、
工事中の様な地上四階でばばあと下りる、ふとした隙にばばあ見失う、何処へ行っても判らない、そこは息を潜めた自習研究室、勤勉な女の恋愛論が話されていた、。奥へ入れば共同浴場の温泉プール、ちと値は高いが此の様な場処があるなんて、男湯に居る女、ユートピアをつくりだそうとする教育機関のささやかな計らいか、仕舞いにはとんでもない事になる…。)
古きレコード漁る。紙面は炎上しているか荒涼としているかのどちらかを望む。
弦楽四重奏団、黒い女性は白へ。コードがひとつ移ると云う事の重さにどれ程の意識があるかないか、驚くべき優しさや驚くべき喜び、哀しさ、と云ったものがなければ詰まらぬ。惚れ込んだ相手には徹底的に着いて行くことに、。
六十年以降の怒り狂っているマックス・ローチの音盤は最高。

11日(晴れ)
(夢、私はどれほどまでに父を尊敬しているか、に就いて、)。
ラジオ第一放送"いのちの対話"より奈良の市民ホールでの観衆とのやりとり聞きつつ祖母から送られしタンカンとサンドイッチ食す、気付けば胸部の調子も安定している。
日章旗よりも存在感薄き黒い立て札…、声のトーンと身を合わせるのに四苦八苦するしづかな昼の日射し、久方振りの子は沢山の言葉を覚え喋り所狭しと空間を駆け回る、どのように世界が視えているのだろう、父親と云うのも大変だな…、。気を使うこと、物言わぬことで伝わってしまうこと、うむー…、自身の至らなさはあれど其の一面だけで人間を判断されても…。にしても最近再び本当に生きてるのがしんどそうであるがよく体力も精神も持つものだと思う…。
夜、頂き物の紅茶を頂く、貴方の想いを身体に入れて行く、という行為の、。
テレヴィにて水芸と胡蝶の夢の芸を見る。選曲の為に様々な音盤を片っ端から引っぱり出す、ミャンマー民族音楽素晴らし、『クリバス』の八曲目に魂消る、『胎内生活』は何時聴いても得体知れず恐ろし、『一般機械学概論』美し、アレスキに魅せられる、デレクベイリーの即興は何度聴いても物凄い集中力に平伏す、…選曲上の勘=直観を身体のどの辺りに据えるかに就いてもう少し話を詰めるべきこと明瞭になる。

12日(晴れ)
今朝も人通り少なき日。珍しく忙しくなる、身体を何処まで軽くしてゆけるか宙を可憐に舞う紙切れとして、子ども等との交感に胸弾む、笑顔の出るひとは良い、焦げかけたピッツァ食らう、点ではなく圏として捉えしこと、。
夜道を渋谷まで歩く、人工の明かりに溢れた街で暗闇を探すとすれば人の心のぽっかりとした虚を覗くしかないのか、見上げれば強い光を放つ星が二つ、天体に就いて詳しくはないが太陽系に属す星だろうか。文芸誌三冊購入(既刊号含む)、大手書店に殆ど出向かぬのは自らの視野を敢えて広げすぎない為である、視野を敢えて偏らせ推進させて行くことが時に何かを生む事もあるだろう、雑誌含め書籍を手元にすれば衣類を纏う様に其れを生活の中に染み込ませ当分の間持ち歩く、そうして書物に印字されたことばたちが生活の中でどのように育ち泳いで行くか或いは生活の中にどの様な新たな層を開いて行ってくれるのかに関心を寄せる、其処に集注する、故にそんなに多くの書籍と此の様な恋愛関係を結ぶような器用な事は出来ぬのだ、ヘタに視野を広げすぎても当方の如き貧しい才能の短い人生では到底やり尽くす事など出来ぬのだし、「何を読むか」ではなく「何を読まないか」に其の人が立ち現れる、と誰かが書いていたのを思い出す。東急のゲランにて幾つかの香り嗅がせて頂く、本日だけでアプレロンデを尋ねて来るひとが四名もあったとのこと、(巴里のお庭の香りはどれですの?)と尋ねて来し御夫人が居たと聞いてにんまりす。
TBHは音楽でここまで表現出来てしまう事に只々敬意を感ず、地面下の"根の国"と産霊神のこと考える、。母から電話で地震の対策せよと。

13日(晴れ)
(夢、見知らぬ女性に着いて行く、古く細い街、人で溢れかえる狭く廃れた銭湯に入る、ぬるま湯。古いホテルかカフェかキャバレエの様なフロントにてカラオケは歌いたい曲無し。昔通った学校、ひとりで教室まで帰る、ひとりで本気で演じる女はビールと云う小道具まで使い他者を巻き込む、次は私の番…、立ち入り禁止の場処に椅子を置きに行く、低い扉を潜ると百年前からのギリシャ風の懐かしき講堂は震災と火災でぼろぼろの侭残っている、)。
判り易い云い回しで表現しようとすれば出来る様なことを敢えてこうも読み難い文体で訥々と記すのは、十分で歩いて行ける場処へ二十分かけて辿り着く為の様なもの、伝えたき事を単刀直入に伝えるのでなく遠回りして遠回りして核心部を敢えて暈して行く…、当たり前に見えていると思しきものを不可視な漠たる赤々とした状態に還して行くこと、眼を変質させて行く為に、固定されたイマージュに不明瞭なものをどんどん持ち込み溶解させて行くこと、無論それはそれとて結果的に此処に連ねられたる言葉たちにはまるで徹底が足りず甘く凡庸で其の思惑は成功しているとは云えぬだろう、時間の問題も或る、が、言葉を記す者としての責任に就いては、…。
大荷物と共に満員電車、大久保に降り立つ、其の場に於ける自分の立ち位置が上手く掴めぬ侭の音合わせであったがどうやら此れでも良いらしい…、のではあるが全身を傾けて色々な意味での可能性を開いて行く様なものにはまだまだ程遠く、その為の準備をもっと詰めて行かねば…、何処かに何かある筈、。
世界を絶えざる"発生"の時としておく為の不条理…、隅々まで明晰になる事が決してない様な現象を繰り返す……。直立した水、。殆どの音楽はいらないし殆どの詩はいらない。
靴三足とお別れす、エジプトに連れてった靴・大雨で水没して歩いた靴・草原を歩んだ靴…、どうもありがとう。前髪を切る。

14日(雨)
(夢、境内の様な長い階段を上る…延暦寺の階段を上れば仏閣は日の入りの太陽の如く目前にずずずずと音を立てて登ってくるのだ…、黒皮のTMGEが演奏する小暗い場、人々溢れ停まっているはバスか、紅いトンネルの様な滑台を滑降し行く、。交差点にて飴色の雨の情景に朦々と見蕩れていると中断させられしはYM君とI君の話、先程見て居しものは悲惨な事故だった旨知る、生き残りしはA君だけだったと…、)。
財布も定期も持たずに歩いて来たがポケットに入りし紙幣に救わる、此れから腹部の感覚を高めて行こうと、一挙一動を可能な限り身体表現と同等の域に迄引き上げようとしてみる、一つ一つが揺るぎない意志に支えられて居ながら其の意志は意識よりも身体感覚的な直観や反射神経に基づく、人間は眼で判る、と六十年以上人を見て一流を育てて来た人、生姜焼き食す。質では無く量で勝負する人、。
夜、帰りに際に連絡在りし近所に寄る、多くの人々の中にスタッフ面して、。産み出してしまったものを否定するのでなく最後まで責任を持って共に付き合い看取って行くこと、私たちは無知だから、。終電で帰る。闇があるから光が見え、光があるから影が生まれる、宇宙空間に浮かぶ光、光を反射する地上の"物"たち、それぞれが携える影、にひどく感動しながら歩いていた、。深夜、ピザトースト

15日(晴れのち曇り)
(夢、赤き木造建築にて飴屋さん見かける。祖父の手乗り寸法の仏像や印章たちを移し込む、弥勒菩薩の足元に斜めにくっついた陶器製の小さな三毛猫、。一九九歳になる友人の存命の祖父は数学者で若々し。)
朝風呂入って出る。
長くものを記して居し先生は勝負して居た、世界を飛び回る独り身の隣の女は自らのファーストネームのスペルを観光地名の頭文字で説明した、。土方巽瀧口修造の文体、……気流の鳴る音……、。夜、誘われし明日の舞台の構想の電車内で「死人〜古代天文台」聴きつつ漸く明確になりノオトに細々と書き付けて行く、高柳さんの義多阿から聴こえてくるモールス信号や海賊ラジオや犬の遠吠えや八重山民謡……燃え滓の様な音…、全面的に喪に服した言葉たちのざわめきの直接性…、吃り……、メキシコと云えば死者の祭り、頭蓋骨、ルルフォ……、。路上に捨てられしものに何かと眼が行ってしまい拾って来てしまう、駅からの道程で様々なものを拾って歩く…、なかなかの太さの二股の長き枝を持ち突っ立っている、木の板、テーブル、鉄屑、空瓶、段ボール、発泡スチロール……、道端に捨てられし多くの壊れた傘たちを拾って歩いた、……、一面の黒、白い面(おも)、。
ペ・イルドンのパンソリ聴く、。

16日(曇り)
(夢、……)。
風呂、詩を、肉じゃが丼食らう、ほんのりと粉雪の様な気配。珈琲と供に山之口貘詩集を捲りつつ時折浮かび上がるものを紙面に記し行く…、隣で世界中飛び回り少年性失わぬ中年のジャズ談義面白し。赤きチューリップと林檎購入し行く。
本日は煙草を吸い風鈴を持ち歩き回り正座して金属を放り投げつつ移動し林檎を洗い口に含み鈴を掻き混ぜ水を垂らし女性に花を差し向け石を打ち付け壊れた傘を射して踞ったまま動かなくなり壺を叩いたりしておりました…、懸命に集注出来て楽しかったと同時に今回も沢山勉強になる、舞台の上で奇跡が起こせなかったら其れは私には失敗なのである、生きていることを開いてみせると云うこと、現段階で音楽の現場の方が踊りの現場よりも容易に自分に誤摩化しが利いてしまうのは私の資質の問題であろうか、まだまだ甘い処がある…、シュールであるとたまに云われるがやってる事はごく真っ当な感覚の延長だと思っている、でも或る意味現実的感覚を越えた処迄行かなきゃならないと思ってる、其れは現実以上に現実を映し出す鏡だ、祖父はシュールレアリスト詩人であったが晩年は郷愁を漂わせた秋の詩ばかりが多いこと等思うと矢張り私は其の血を引いているものであるな…。本日は二つばかり奇跡を見ることが出来た、鎮魂歌と青いお月さんがとても良かった。雨の中に大荷物をからだの前に抱え歩む。身体の幹をつくる、矢張り日々の努力怠らぬ事、身体の魂の根っこに届く音。
西岡常一さんに就いての話聴く、深夜にはスンジュール・シソコ聴く。

17日(曇り)
(夢、国立民族博物館ロビーの巨大モニターにて映像見る、偉そうな方と使用人等、。小雨降る中国風の街、薄汚い水色のトイレに安傘が沢山かかっている。地下へと入ってゆくモニュメント、ヴィジョンが陸上から海底から上空から宇宙へとどんどん移り、姿もまた鼠から象から虎から鳥から鮪から人からジュゴンからアメーバと…、循環してゆく)。
(省略)
滅多に居ない時間、たわいのない話がはずむ、手記進める、。夜、雪が降る。『キューポラのある街』観るが吉永小百合ってこんなにも骨のある作品に出ていたのだな、素晴らしい。

18日(曇り)
(夢、草津の長き階段の火祭りと遭遇、古き表札、モダンなホテルにてYさん〜男〜とベッド入る)。
昼過ぎ池袋パン屋にて身体と呼吸や第三セクターや生業や縄文や輪郭や律動や気配や集注力等に就いて話す、。
茗荷谷から両国の喫茶店にてピラフ食らいつつ山之口貘
ケイタケイ『StoneField』『風を追う者たち』、の開演までの時間にて考えていたのは此の様な時にあって舞台を観に来る、或いは舞台を開くとはどういう事かに就いて…、ヴェイユソンタグのことば思い出しつつも……、此処数年は友人が出演している事もありケイさんの作品はそこそこ観させて頂いているが観る度にどうも言葉に仕様のないものを貰って帰る感じであった…、のだが、今回の二作品を観て何かが歴然とくっきりしてきた…、其れは作り手も観る側も三一一を経過して此所に居るという事に寄ると云っておそらく間違いないと思う……、つまり彼女たちの踊りは此の島国に於いて来たるべき人の営みのひとつの姿を開いてみせるという事なのではなかったか……、もう少し分かり易く云えば、より良く"自然"として澄んだ人の営みの姿を探り提示する事が彼女たちの踊りなのではないか……、それは未来からやってくる踊りなのかもしれない……、まず所作ありき、否、其の前にまず、石があり樹があり風があり水があり土があり落ち葉があり月があり陽の光がある…、其処に関係が生まれ、動きが生まれ、営みが生まれる……、人間は風景には還れない…其の宿命を背負いながらも物質の優しさ・沈黙と能う限り寄り添い、可能な限り其に近付こうとし、生きている事の不思議を畏れ歓び、開いて行こうとする姿……、を目の当りにする……、。余談だけれど、そして此れはたぶん誤解だけれど、何故舞台上でものを食べないのかと云うことの意味は此処では稲垣足穂宮沢賢治等と似て、沈黙する物質への憧れに依拠する様にして食べずとも生きて行ける新しい人類の姿を見ている様にすら……等と思いを馳せる瞬間も……。にしても新作の『風を追う者たち』は特に素晴らしく、ゆっくりと風に揺られる様な群舞に於いてふと全体でひとつを動かす呼吸が耳に触れる瞬間があり私は其処でいたくグッと来てしまったのだが其処で感じたのは間違いなく"呼吸とは優しさだ"と云うことであった、其れは恐らく人類の最後の地点まで変わらぬだろう……、生きて居ると云うことの最後の希望であり証であり光の様なものとしての息…、息とは風であることは云うまでもない、そして両の手に掴んだ枝が落ちた時再び、人は何処まで行っても風景には成れず物質的優しさへと至る事の不可能さの哀しさ苦しさ、人々は舞台袖に捌け独り取り残されし女(ひと)の孤独、然れど再度作品冒頭を映す様に再生し現われ来る人々に、誕生と死と孤独が繰り返される事の希望を観る……、けれど今回のケイタケイは此処からこの先を開いてくれたのでした……(たぶん此れ迄もそういうことだったのでしょうけれど……)、ケイさんの小さな身体はちっぽけなひとつの人類として天井の巨大なグローブを仰ぐと共に其処に直立し存在はぐんぐんと拡張し充ちてゆき発光しているかの様ですらあり、これがおそらくは本当の意味での人類の叡智なのだろうと……、何処か『二〇〇一年宇宙の旅』の終盤のスターチャイルドをも連想するけれど、ケイさんの身体は此の島国で育まれた感性と分ち難く結びついていると云う点に於いてより具体的で地に足着いて生きる姿を示してくれているように感ぜられた……、ケイタケイは未来人であり古代人なのである……、。
帰りの車内にて安東ウメ子さんのお力を借りて東京を見ており、人類は何処まで行っても幼年期の侭なのだろうなと感ず…。
父来る、財布譲受ける、音を立てずに。

19日(晴れ)
まったく都会はひどい空気を吸いひどい音を聞きつつ生きなければならず其の事に何の疑問も心配も抱かずに生きる様な鈍感さか…、まぁ何処に行ってもそれぞれに色々とあるだろうが…。銀座の歩行者天国にてよれよれの祖母さんの手を引くギャルの微笑まし。「オディロン・ルドン展」、ルドンはじっくりと観れば観る程に此の画が人によって描かれたことに驚きを禁じ得ぬのだ…、ルドンの紙面での重力の操り方はとてつもない、現実が幻影になってゆく狭間、深くしづかな叡智…、言語以前の思索する色彩、……『グラン・ブーケ』素晴らし、あの青……、。
細江英公「シモン 私風景」で四谷シモン白石かずこ対談、シモンさんの土方さん話の印象深し、人形と写真と詩…、本能…、。寿司食らう。
夜、渋谷にて『ニーチェの馬』、あまりにも凄まじすぎて笑いしか出ない、こんな映画をリアルタイムで観られる事の幸福、一体何なんだこれは、此れだから映画を観ることを止められぬ、というか現代の作家でこんな画が撮れる人は間違いなく他にいない、キャメラも最高峰、この時間感覚の遅さ、信じ難い奇跡、タル・ベーラの途轍もない必然性で撮られている事は強烈に伝わって来るが其れが一体何なのかまるで分からぬ、にも拘らず其処に全身を晒される…、救いはないのだが此の様な映画を撮る人間が今の世に居てくれると云うことが紛れもない救いであり人間の途方もなさを見せつけてくれる。会場で知人と遭遇するも顔見合わせて苦笑しながら沈黙して駅に向かうしかない……。山本邦山『無限の譜』、富樫さん佐藤さんとのトリオ聴く。生命の色彩(光の波長)認識に就いて…、。

20日(晴れ)
ひとつの音より"此処迄"その質感を感受性全開に豊かに聴き取る事が出来るものかと空いた口が塞がらぬ、。身体全体で動くこと、息との関係、。

21日(晴れ)
(夢、気付けば車で曇り空の英国を走っている、何処の辺りだろう、田舎の細道を走っていると丁度駅が見えるので確認しようと立ち寄る、アジア人がやっている緑の雑多なコンビニ、駐車場には車が多く出るのが難しい、弟が居る、何処へ向かうのか高速道路、)。
悲哀と孤独と他者への開かれが足りない。そろそろ潮時かも知れぬと脳裏に。
『ヴェネツィア時代の彼女の名前』、或るワンシーンをもって一生涯残り続ける様な決定的な映像体験を残す宝物の様な映画と出会う事が、本当に稀にある、此の映画の最終カットは正に其の様な超絶的な美そのものとして迫ってきました、此の作品は発見されし事を待って居ることすらなく只ひっそりと沈黙しながら其処に在り続けるのでしょう、誰に観られ様が観られまいが…、映画もまた"物"(風景?!)で有り得るのだと、其れはフィルムに刻まれた人為的な痕跡を光に透かして見る影だと気付く時に初めて、(洞窟壁画こそ人類最古の映像作品だ、)と語ったメカスさんのことばは一層はっきりと鳩尾に落ちて来る、。会場にて一年振りの知人と遭遇し嬉し。アテネフランセ前の坂道に立って来る音は人工的なもので溢れて居るが何時も心地良いのは不思議である。

22日(曇り)
(夢、Sさんはナイアガラ=大瀧詠一の知ったかぶりの話ばかりして居る。知人の女の子は体育館にて多くの友人集めてコンサートで大変盛り上がり、水の音が大変きれい、しかしやってることは…。ズボン一着仕立てる。Nの新作には残念ながら参加出来ず)。
少年愛の美学』再読、此の書物は同性愛考やA感覚考と云うよりも薄明主義者としての刹那(フラジャイル)考であろう、自分は読書に於いても舞踏を探して居る様に思えて来る…。川仁宏の音源とトン・クラミ聴く、大地と呼吸がある…。魚料理を食らう、机回りを整理す、夜は小雨降る。

23日(雨のち晴れ)
(夢、Sさんに雇われし四十名程の私たち、護摩焚きの為の札を何葉もつくっている、)。
雨の音がとても心地良い、雨上がりの光がとても美しい、湯煙が上がっている、。
マルグリット・デュラスのアガタ』観る、どこまでも到達不可能な愛…愛の幼年期に留まり続けること…、苦痛の中で愛し続ける為敢えて出発する女…、沈黙した現在の其の場処の風景に記憶は香りの様な気配としてしづかに見出され、時折風景の中に無言で現れる亡霊の様な人の影は記憶の中を彷徨う二人なのか…、『ヴェネツィア時代』もそうであったが不在であること、愛の不可能性、或いは昨日捲っていた影響だろうか足穂の云うA感覚(不幸性と未生への憧れ…、永遠的薄明と宇宙的郷愁…)にも近しいものを感じていた…、。風景と幻影と文字と暗転と声と音と音楽のそれぞれに可能なことに自覚的に其れ等を香りの様に絶妙にフッと立ち上がらせ全体のヴィジョンを浮き上がらせて行く、此の様な映画を他に知らない。
トリュフォー『400 Bolows』のサントラ聴く。

24日(晴れ)
(夢、生死に関わる問題があり追っ手より逃げる、見つかると炎で焼かれるようである、神社の床が外れる様になっており其処へ案内してくれる女性、代々伝わる秘宝が置かれて居る、人影が外を去ってゆくのが見える。部屋、弟の卒業式、。森の中のHSが懐かしい、ビー玉、何時しか其処はプールに、ドライヤー探す女性たち歩く、)。
暖かし。改めてヴェイユを読んで居て様々な大事なキーワード浮かび上がる、例えば拒食に就いて、。美しさとグロテスクさは紙一重である。大事なのは人間的な気迫であると仰られる。何故か頭が着いて来ず、眼球が一点をしか注視出来ない様な日であった、からだもあまり力が入らず。画を描いてよ、と云われるが私はシュールな画しか書けないので…とお断りする。海坊主の様なカプチーノを差し向ける女性は素朴な笑顔を見せる。
富樫さんの『SpiritualNature』聴いており能楽の様なフルート後のサックス迄も稲作文化がコルトレーンと遭遇した様な音に聴こえて面白い、三者のパーカッションも風土の営みを慮らせベースは大地として支える。暗い道を選び歩く、辺鄙な場処にあるコンビニ前で道に迷う女性に駅の方角教える。狼信仰に就いて。試験的に酒と煙草を交えつつ稽古の夜、(酒や煙草をやめるってのは意志の弱い奴のすること)だそうです。

25日(雨のち晴れ)
(夢、幻の犬連れて散歩す、紙の様な姿で緑色に光る犬…、土の丘、。/あまりに画が素晴らしいのに己のプライドにかけて其れを絶対に金には換えようとしないのが彼の生き方だそうである、デカルコマニー、或いは筆に寄る薄墨、描かれたものが如何様にも変容して見えて来る…。其処は江古田、まだ時間がある為に何でも売る古本屋"桜来坐"へ、薄明かりの倉庫の様である、大量のレコードやカセットテープの山に相当にマイナーなイラン映画の全編の音をパッケージ化したO.S.Tに目が留るも一万円以上するので断念…、信じられぬ美しい音楽に耳がとまる、書物の質があまりに高級すぎて書物に見えず資料の様、勉強机の様なものも在る、入りづらかった、…何時しか私は上半身裸であるが何食わぬ顔で店を出るだろう駅の方角へ、…駅への通路にて東南アジア系の二人が呪術めいた踊りをポップに歌い踊る、其のうちに四人になりそれぞれのソロでストリート系もあったり高度な技術、の中でも最後の方は激しいビートの中で只ひとり死んだ様にしづまりかえった微細な動きの踊り…に惹き付けられる。/自室は沢山のコンポやコンピューターがあり、夜の寝室…、居るのは妹と数名だろうか、テレヴィ画面から流れる映像は些か政治的で、シンプソンズゴダールになって行き、ダグラス・サーク忍たま乱太郎になって行った…、朝になりモーニング食べに赤い煉瓦の池袋に出る、ポケットには金が入っておらず、…)TBHが流れる中で雑魚寝して居た為か夢を明瞭に覚えてゐた…。
今朝、梅の花が咲き、蛙たちが一斉に土から出て鳴き始める。髪を切る。風景映画とフリージャズ、或いは詩に就いて、平岡正明。"責任"に就いて、自分に対する他者に対する社会に対する。呼ぶなら覚悟して、と伝える、私も其んな覚悟です。近所で小火騒ぎ、眼鏡の酒飲みの女性のしづかな色気に吃驚する、負けてらんない、初めてお見受けして片手じゃ数足りない年月経つのに今だ最初の頃の勢いが持続していると云うのは凄い事だと思うと伝える、。帰りの森の公園を歩きながら森高千里口ずさんで居る。夜中に帰宅、焼き芋食らいつつ『乱れ雲』観る、近頃時々ペドロ・コスタの言葉思い出す、。

26日(晴れ)
(とても濃い夢を見たけれど忘却)。
小銭入れ紛失し出て来ず。近頃非常にお腹が空くものである。
夜、外苑から渋谷へ、のっぽのグーニーを観に、素晴らしかった。交差点前で風の中メカスさん等に就いて話す。
石牟礼道子さん特番「花を奉る」、石牟礼さんの随筆や詩を持ち歩き何年も絶つけれど"その後"に可能性の新たな層が一層明瞭に浮かび上がりことばの力が更なる強靭さと柔らかさと豊かさを帯びて読めて居たのでした、『苦海浄土』が別格なのは勿論だけれど水俣病を越えて石牟礼さんが開き残して下さった凛然と輝き息衝く世界をもっともっと先迄掘って行く事…、数十年振りに邂逅した胎児性患者さんとのやりとりが印象に残る。

27日(晴れ)
(夢、記し忘れて忘却)。
阿部薫目当てに『十三人連続暴行魔』鑑賞、アルトやハーモニカやギタァが時に殴る様に軋む様に咽び泣く様に忍び寄る様に、どうにもやり場のない哀愁や無味乾燥な暴力衝動を過剰に鳴らす阿部の音は阿部と云う人間の生きる姿そのもので、それが此の寡黙な映画の声だろう…、盲目の少女だけ他の人と違ったものが見えていた、其処で男は完結した、…にしても阿部薫のアルトは技術も感情も素晴らしい。
時空間に永遠をもたらす価値観、託す事…、。世界を相手に只管に一音を打ち続ける。塩ラーメン食らう。

28日(晴れ)
(夢、黄金の祭典、Hさんの名前、夜が更けて消灯の後も町では人が思い思いに過ごしていた、月明かりのテラスでコーヒーを戴いた、赤き洞窟、U君は野外での研究発表があるらしい、風呂は女性と入っていたが然したる気も起こらず、)。
本来全ては死活問題である筈なのだ、たった今此の瞬間も。愛するものだけで良い…、記憶と感受性から言を紡ぐ。
枠から逸脱して行こうとする力と其を引き戻そうとする力との鬩ぎ合いこそがジャズと云うもので、ドルフィーのダンディズムはフリーのギリギリ一歩手前で踏み留まっている点であろう、ドルフィーは楽曲の構造の中に敢えて地雷を置く事に依ってプレイヤー各々が自身の限界と向き合わざるを得ない緊張した醒めた状態をつくり上げようとする、各々が可能と不可能のすれすれの淵に立って集注も臨界に達しかけている地点に於いては誰しもグルーヴを最も強く全身で捉えている事だろう、さもなくば帰るべき場処を見失い忽ち形式諸共崩壊してしまうだろうから、…と、そんなことを考えてゐた……、マイルスの第二次黄金カルテットも同様に、。
言語の問題、言い換えれば其れは思考の問題であったのだろう、例え僅かでも引っ掛かりのあるものに対しては其のひとつひとつを徹底的に考察する事から始める事、鋭く切り込んで行く感性と誠実さを持たねばお話しにならぬ、さする事もなければ何事も語るに足りない、ならば口を紡ぐべきである、愛も憎悪も中途半端にしか感じられぬものに対しては語る資格など皆無である。私には分からない、あの時どうすれば良かったのか、一体どの様な態度が最善であったのか、然れどどの道を選んだとしても結局結果は同じことだったのだろう、分からない…、其れを想うととても辛い。
沖縄…、叔父と祖父の地、。色とは心だと云う事をルドンと名嘉睦稔に依って教えられた。ジャズとポロックと睦稔さんと足穂の速度。

29日(雪のち曇り)
(夢、Yさんと、教室、三つの顕微鏡の中を覗く、)。
一日は雪掻きから始まる、巨大パラソルは絶えられずに折れるだろう、雪の中で生きる力、案の定に人入りは少なく夫々と親密に動く、麻婆茄子食す、労働は思考停止を招き大切な事と向き合うのを忘れさせる、。
小石川にて四時間半の集注、煙草吸わう、公園は雪解けで水浸しの地、もう直きに冬も終わるのが辛い、。電車内で宇宙的郷愁考、人は物質としての宇宙感覚を取り戻す必要が在り、其処に永遠が宿るのだと、何故今頃に足穂を再読してゐるのか不思議では在るが、何時も立返って向き合わざるを得ない方のひとり、。
『さすらいの恋人・眩暈』観るが冒頭の真冬の氷った噴水のシーンから魅入られる、ロマンポルノにも又ダンディズムがある、ろくでもなさやみっともなさと共に在る揺るぎない詩情、小沼勝特有の美学、文学性。
オマール・ソーサ聴き痺れる。