山田有浩 / Arihiro Yamada

Information of Arihiro Yamada (dance, butoh / ダンス, 舞踏)

一月。










1月8日

御挨拶が遅くなりました、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

昨晩、目黒区に戻りました。焼酎饅頭を持ち帰りました。挨拶に行きました。晩に髪を切りました。
宮本常一荘子やつげ義晴の随筆を捲ったりしながら、車窓を眺める日々、雪の村や、在りし日に造船で栄えたであろう町等を過ぎ、色々な方と言葉を交わし、眼差しを交わし、姿を交わしました。
年の暮れには遠方に住まう或る大切な方と束の間再会出来ました事も、とても印象深かった、そうだなぁ、矢張りそう成るべき時にそう成るものなのだなぁ、と。自然に何の悔いもなく。
それぞれの地にそれぞれの人、(土地を旅するのでなく人を旅するのだ、)と、或る方が仰っていました。それぞれの、影。それぞれの、光。語らう事、たわいもない会話から一度きりの人との深み在る会話。
旅の際に聴いたのは、立川談志とサムルノリ、それに宿で淡谷のり子さんを少々。立ち寄った古本屋でジュネを手に取りましたが何とは無しに棚へ戻しておりました。
帰り来て、と或る方と話しており、どんどんと遠くへ行ってしまいそうですね、と。むー。

本日より仕事始め。気付けばYさんと"奥行き"の話をしておりました、人生の。日本史の話が何時しか。ふと、幼少期に通った水泳教室にて毎回唱えさせられて居た教訓めいたものを思い出しておりました。あぁ、私ってば説教くさいのが良くないものです。

録画しておりました石川九揚さんの特番を先程まで観ておりましたが、良寛さんの臨書を終えて氏の頬を伝つていつた一筋の涙に思わず絶句、、なんという方なのでしょう、これが人間と云うものです、石川さんの、筆蝕を通じての、作者以上にその心の奥の動きや気質に触れて行こうとする行為……、時に十時間にも及ぶ……、私、此の様な方がこうしていらしてくれる事、そうして此の様な大事な大事なお仕事をして下さっている事に、本当に有り難いと云うか、感謝のようなものを覚えているのです、それも此の同じ時代を生きられている事に、。
其の様に感ぜられる方は他にも沢山いらっしゃる、ちゃんとことばで伝えられていなかったりもするけれど、うむ、有り難いこと、。

と或る行為の事を、或る方が、(すみません、名詞を伏せてばかりで……、)「水際をつくって行く、」或いは「島=縞をつくって行く、」と表現された事を思います、まずはそこからいつも始めるのですよね、うむ、。

原発推進派への違和感は云うまでもないですけれど、同時に多くの脱原発派への違和感もじりじりと感じておりました、推進派が居て反対派、一方の極に対し対立項を立てアゲインストして行くと様な二十世紀に幾度も繰り返されてきたやり方では、もう駄目だと強く強く感じて居るのです、その次の在り方へ行かねばならない、長い長い忍耐も必要となって来る問題です、人だけの間で解決する問題ですらないのやもしれない、でも人に出来る事の可能性は最大限まで開いてゆきながら、それは責任として、でも人に出来ること等僅かなのだと云うことも分かっておくべきです、時間を含む自然には勝てません、人はどう生きて行くのか、何を考えて生きて行くのか、此の島に住まう人々が直面し考えねばならない問題というのはまた何故に此の様な苛酷なものかそして人類にとっても貴重なものかと、。
(此の様な場で何処まで書いて良いものか、いつも考えてしまうのですが……、あらぬ誤解など受けるやも知れませんが、私は此処で何の主張もして居ませんし、何も云っていないに等しいのだと付け添えておきます)。

今年は、良寛とジュネと白川静南方熊楠空海から、。どれも既に目を通しては居ますが、改めて今の私なりに感じられるそれぞれに合った読み方で。

1月9日(晴れ)
(夢、お水の女の子と階段沿いスナック通り歩く、なんとも趣ある店名の連続、英語の教材)。
急いで出る、喉が乾燥し咳が止まらぬ、髪型褒められし、疑問に思わなくなることは危険であると、成人式、色白の人が好きらしい、鶏肉と茸のソテー食らう、電車の中では良寛さん、小石川、夜、浅蜊の味噌汁と焼き魚等頂く、グナワばかり聴く。

1月10日(晴れ)
(夢、M君と過去の恋愛話、あんなに良い人だったH君に苛立っている……、朝、体操服無し、家より送ってくれるとのことだが高級車を車庫にぶつけて何食わぬ顔、ペットボトルを踏むが問題無し、苛立つ、。学校、日直、私の"間"は妙である。昼、学校を抜け出しライブカフェにて、こちらでイベントしたいと云う若者たち、DJの流す曲懐かし、苛立つ、演奏見る、ごく真っ当な若者のフォークは良質、双子のFさん急に歌に参加、トイレにて聞く、Kちゃん手伝いに来ておりアンケート配ってる、絵にメッセージ添えて渡す、どうだ、不在の人、)。
満員電車、社長は訪れず窓拭き、私はユーモアの分からない人間なので音楽にヘンに持ち込まれてもそこまで引き込まれない…、舌の肥えたる人、パリとホーチミン奄美大島の逃避行の話を聞く、しばし踊りと音楽と今年の課題の話、寒さ厳しさの中から生まれる。
土取利行関連、(音の背後に在るもの)、気付けば間章「自由空間」周辺と繋がって居る、。『旅がらす次郎長一家』『第五福竜丸』見る。"手"と云うものの魔術性、二足歩行に就いて考え始めて漸く此処まで来る、窄めた形の"手"。夜になると咳止まらじ。

1月11日(晴れのち曇り、夕刻より強風)。
(夢、I君とお別れの飲み、ゆっくり友人来る思い出横丁二階。格安ジーンズ屋さん等入るの初めて、Kさん、。舞台、数曲しか出来ずとも楽屋裏にて出来る曲を弾き語り続ける若き女性の愚直さの悪くなし)。
石。関係をつくること。胡弓。手拭い。
『紀ノ川』、"家"、世代、(ああいう哀しみ方もある…、)、時代が変わる・終わると云う感覚…、。『原爆の子』、映画と現実との距離、民衆の為の仕事、フィクションにしてくれることの優しさ、。山本邦山『銀界』聴く。

1月12日(曇り)
(夢、ゴロワーズ売っておらず、Hさんが大道路向かいの店で煙草買って来てくれる)。
寒し。トレンチコートを取り出した。この街はいつも静かで耳を澄ませるのが心地良い。冬は白く黒くて良い。川面を突く白鷺を見る。挨拶して回る。先日食べた焼餃子の美味しさを心の底から母親に伝えようとして居る少年がかわいい。沖縄土産を頂く。
ポーの一族』、人間にとって記憶とは、時間とは、。マリーム・ マフムッド・ガニアwithファラオ・サンダース聴く、最高のグルーヴ。南方熊楠、自分なりの曼荼羅、レイヤーを、。今年やることを色々と羅列、行動に移せるところからさっさと。

1月13日(晴れ)
(夢、冗談音楽的な連中との距離の取り方に困る…、本気になれない…)。
天気良し。談志、品はなけれど了見の筋が通ってる部分、。『暖流』、増村保造作品ってあまり好みではないけれど、イタリア留学と云う文脈を頭に入れると何故かしっくり来るのが不思議でした。
遠藤賢司「第三回純音楽祭り」、ロックのライブなぞ数年振りに訪れたけども此がロックかぁと唸らさる。猫歌舞伎、人間国宝。戸川さんも良かった。夜道を眼を瞑って歩いて帰る。カレーうどん食す。

1月14日(晴れ)
(夢、丘の上へと上り続ける、そこは陸上とは又別の天上の界の様、宮殿の様な学校、懐かしい、人が澄む、プール、落ちそうになりながら、白い人、)。
バスに乗る。微妙に遅れる。永遠の少年。宝塚。カレー食す。更に直立歩行に於ける"首"の役割に就いて考え及ぶ、私が首を触ることに就いて。
大瀧詠一のラジオ、のぞきからくり、相撲と行司と神、ヒョウタンツギ、深夜地下室少数性、運の総量、。小沢昭一の節談説教もの再聴。

1月15日(曇り)
(夢、地面が移動し続けている、世界の周縁、輩が降り続ける、教室に離される狂い人たち、机上に広げられた資料の山、Iさんを思い出す、)。
トーマの心臓』再読。走る人々、貴族の様な育ちの人々、豚肉の黒酢あんかけ食す、意外と忙しなくなる、午後にくるくると回転するのを見らる、美しき人を見てきゅんきゅんとす。
久々にBBC RADIO3聞く。邪視と人柱と差別の構造に就いて、或いは残酷と云うこと、近現代の地下層の原始、鶴見和子。考えてみれば時間がない、。

1月16日(曇り)
(夢、古い学校、Iくん、新宿の路地に坐り、古本は公園に置きっぱなしで何処かへ持ち去らる、古本市、)。
一度しか会つていない人の存在がいつまでも自分の中で大きく影響して居ると云うこと…、一言か二言のみ言葉交わしただけだったけれど、。 今演らなけりゃ逃してしまいうるようなものに金を惜しむなんざその了見が気に入らない。塩ラーメン食らう。帰る家がある事を、待って居てくれる人がある事を、布団の暖かき事を、食べるものがある事の有り難さを、。
『生き物の記録』、ゾッと寒気がするのは変わらぬが三一一後にまるで違って見えて来た映画の一つ、ラストのしづけさの構図も凄まじき事…、此れが遺作となる早坂さんの音楽の不穏さも…、雨がタルコフスキイの様ですらある、。黒澤は小津や成瀬や溝口以上に"人類的な"寸法で此の列島に暮らす人間によって描かれねばならないものを撮り続けて来た人と云えるかも知れぬ、(小津は"家族"だし成瀬や溝口は"人の一生涯"といったそれぞれの寸法が在り、それぞれに深みが在るけれど)。
行きつけのカフェーにてブルーベリージャムパンは絶品、Sと会う、人間蒸発や老年処女や人柱や部落問題や脱獄と云った話、奇妙な感触、嗅覚、。後の席に思いがけず知る人の声在り振り向けば三年振り、変わらじ、自らの過去を無意識だが意図的に白紙にして居る様にも見えし、。小汚い店でラーメン一丁、駅前で人間を見る、ジャケット譲り受ける、電車で美しい人見る、オラツンジ聴く。帰宅、咳の止まぬこときつし。

1月17日(晴れ)
ひどくしづかな日、スリリングさと外連に就いて、窓を開ける事に就いて、。ブラインドを磨いた。玉三郎見に行きし人が居た、。有り合わせのもの頂いて帰る。
咳がきついので病院。棟方志功、青森、速度、触れ得ないもの、渦巻くエナジー、近視、大胆さと繊細さ、閃光、。寺を歩く、絵馬を見る、一遍と"任す"と云うこと、"閑"、隙を明けること、。
BBCって其の週発売のクラシックCD等のヒットチャートまでひとつひとつかけて紹介してるのは流石ですな。

1月18日(晴れ)
(夢、私はこんな奴等とは違うなどと云う思い上がりで周囲から浮き結果的に居辛くなっていたのだろう、高校時代、雨の森を窓から眺める、立食の会)。
漸く動きだす電話。目黒から小石川、小石川から浅草、。着物の女、茶目っぽく舌を出す少女、肩をいからせ蟹股で大見得張って歩く白いトレンチにポマード頭の不良、時代に取り残されし浅草芸人、色っぽい手相占いの女に札束握らせようとする親父、色街の面影、。参萬にて壺を落札す。食後に薬を飲む、マヘリア・ジャクソン聴く。

19日(晴れ)
部屋の衣類整理、もう着ない大量のもの纏める。右の目元に縦に傷の入る。
Sと雑談、慣れぬ夜分を任さる、水と鳥の声響く空間、。仕事後、突然の連絡入り新宿飲み、今年の方向性及び東北の旅、。中村歌右衛門に就いて話聞く、叩き込まれた身体の虚構の風格、手、七十に成りやつと娘が踊れる、。

20日(雪のち雨のち曇り)
(夢、暗い街、水浸しのマンション、シャワーを浴びる、Mさん、出かけるところ、。校庭の黒い学生等、此の雨はやがて雪になろう、学校、緑の前のベンチにてNちゃん、トロッコのような乗り物は裏側を伝って移動する、花で溢れた幽閉塔、影、。しかしあの街〜N〜であれば今晩の内に隣町迄行かねば明日の一日では帰れまい、夜行バスである港町、深夜の温泉街バスターミナルにて落語会横目にバスへ向かう、)。
雪で電車遅れる、ぎゅうぎゅう。あやうく恋に落ちかける、考えてみればどことなく初恋の人の面影と似たものをもっているやもしれぬ、が、其の影を投影するのも失礼な話です、。本日も白くてひどくしづかな日。己を"物"に例えるなら此れ何ぞと問われるにアンティークの椅子と答う。
夜、友川かずきワンマン、怒りと情緒と少しの湿り気、勝負師、落雷に打たれたし、おののいた、靴がお洒落だった、ジャックコーク飲む。手と首。
ランジェ公爵夫人』見る。目が乾き鼻のむずむず止まらず気付けば顔青白し。堕落に就いて。

21日(曇り)
(夢、詳細は忘却したが感触のみ濃厚に覚えて居し)。
渋谷にて待ち合わせまで買い出し、電気屋と薬局と生地屋と民族雑貨屋、某店にて或る物購入し其の侭店員さんに一部を差し上げる、。
約二時間、打ち合わせのようなもの、しかし結局は動くことから、場や互いの音や身体や"流れ"が在ってこそカタチをなしてくるもの、。
ワケあって映画音楽を片っ端から整理、ソンドハイム聞く。

22日(雨のち曇り)
(本日も夢を忘却するも、其が"実"の体験の様に生活の端々にふっと記憶の気配として浮上して来しことあり、)。
軽く首を傾ける仕草。バレエと能の話をす。味覚が変化する、水や珈琲の味がまるで違う…、オムライス食す。
田中トシ「風楽」へ神保町、色々な意味で今観れて良かった、「声・音・動き」に加えて書すらも、。結局は私も遠回りの道を選ぶしかないのであろう、そうやって何年も掛けて、。
帰りの電車で縦書きノオトに文字を地図を描くように紙面に置いてゆく、自分の名前の文字中に"土"も"月"も"氵"も在るのだなぁ、と。"上虚下実"の状態をつくって行くこと、詩を詠むことに就いて、ことばと云う"音"を手掛かりとして…、。一度しか会ったことのない方が覚えていて下さっていることはとても嬉しい。地元のカフェーにて閉店迄執筆。帰宅して家城巳代治『姉妹』、細部に亘ってとても丁寧で楽しくて地に足着いて湿り気もあって期待以上に良い映画で吃驚、いつか子どもとか出来たらこういう映画一緒に見たい。深夜便。

23日(雨)
(夢、談志の最後の弟子である二人のうちの一人、)。
"敢えて"について。どんどん人が居なくなって行く。水伝う窓に耳当てる。終わりし後のことを考えておくこと、。
病院までradio3で「眠れる森の美女」、夜分の境内にて溝にポリリズミックに落つる水の音にじつと耳を立てる、あまりにも美し。
nhkでの田中正造南方熊楠の番組、良かった、自然と文明、人のこころ、新たな知性、。外の雨の音心地良すぎる、久方の雷音、竹本綱大夫の天網島の後、radio3では先日ロンドンで行われたラヴェル演奏会の特集が数時間…、。人生から音楽が生まれ音楽から人生を識る人間の姿、。
真摯に向き合おうとすればする程に人と人は最後まで理解し合えない、出来るとすれば眼を瞑ることでしか(それを諦めるとか許し合うと云い換えることも出来るけど結局同じこと)と云うことの底知れぬ悲しさに途方に暮れながらも、。

24日(曇り時々晴れ)。
(夢、ジュースをつくる、。新興宗教の子どもたち、テレヴィ、)。
朝、雪積もっており坂道を歩くのに手こずりし人々の姿。雪掻き楽し。木の上から時折どさっと落ちてくる。人、全然おらず。
鮭の韓国風味噌を大盛りにて食す。時々痰が出る。ことばは先ず音、言葉は身体、夢、虚、

25日(晴れ)
(夢、学校の裏の奥へとトンネルを抜け草薮を掻き分け進む、奥深し、小さなミニチュアの様な村見つける、動かぬ老婆、。薄暗き古い劇場の屋根裏の様なカフェーで女と話込む、車運転す、Hさん色っぽし、。卒業の若い人たち集まる温泉地の講堂で桂文珍が猥歌、)。
残っている雪かき。少しの言葉を添えるだけで印象は大分違うものだと、。
意志を越えたもっと大きな意志に動かされてゆく、。隙間を視しこと、隙がありながら細部迄繊細に神経の行き渡っている人、文字の隙間、。
室野井洋子と田中トシの公演へ横浜、素晴らしき会場の空間設計に魅了さる、舞と声と響に就いては云う迄もなし、会場の薄暗さもよく視えてくる明るさで僅かな動きが大きく映えて来る、其れは夢の領域、久し振りに長く正座していたのも気持ち良し、腰で視て聴いた。
帰り、横浜は未来っぽい空間と建築と空と光、洒落たカフェーにて、噴水の上を歩く不思議。
アンゲロプロス死去の知らせに談志師匠の時とはまた違った重みがずっしりと来る…、タルコフスキーアンゲロプロスとビクトルエリセの御三方に寄って小生の映画観は反転した、彼らの映画との出会いがあってこそ今の小生は映画に魅入られ続けて居る、其れ程までにアンゲロプロスの音と画と演出と語りは圧倒的だった、一本の映画を撮る為に実際に村をひとつつくり其の村を水に沈めるなんて監督は今の映画界にはもう残っていないだろう、撮らなければならない映画がまだまだ山のようにあったに違いない、アンゲロプロスと云えば私には国境・漆黒のロングコート・ことばの通じないこと・境界を越えた結婚式・切断される音楽・主人公らの記憶と哀しみと孤独・重く立ち籠める雲・時代に翻弄され土地から土地を移動してゆく映画……であった、沢山の大切なヴィジョンを受け取らせてもらった、。夜中に帰宅して『永遠と一日』を見る。
モー娘。のドラマ見る。

26日(晴れ)
(夢、初めて来る故郷の地の巨大な倉庫に隠る、自給自足の爺さま、明日、帰る、。レジの打ち方を完全に忘却し手こずる、十五分程かかって漸く初心に戻る。中年の女と若い女、中年の女は虚無を口にする)。
言葉と言語に就いて、「と」と「の」に就いて、浄土真宗に就いて、物質への憧憬に就いて、夢に就いて、人を訪ねて行くことに就いて。煙草の煙りだらけの地下にて。 或る方の年譜つくる作業。
テレヴィを点けるとたまたま演ってたグラインダーマンに圧倒さる、ニック・ケイヴ大好き、もはやギタァがサックスの唸りの様にすら。『風が吹くとき』見る、確か約十八年程前に見た覚えがある…、まるで記憶から消えていたが、こんなにも恐ろしい映画を他に知らない…かも知れない。"知らないということの美学"…、知る必要のなかった扉を開いてしまった人々に就いて、。最後の最後には涙溢る。

27日(晴れ)
(夢、Mは全裸で眠りに就くSも共に。祖母のうち、ベートーベンの大きなオルゴオル直す、従兄弟らと、音具、バスに乗って、見知らぬ女にキスをする父。バリのワヤン、壊れていた眼鏡調整す、性的雑誌見つける、学校は今朝からなので間に合わぬだろう、朝の光、明日に間に合うように出る)。
いま雪解けの水垂れ続ける、パンジー咲き乱れている、時々風で樹々が大きく揺れる。サカキバラ世代と反体制と充たされぬ労働者階級とロックに就いて。熊楠の夢研究に就いて。放射能に就いて。
パパタラフマラ「SHIP IN A VIEW」見る、驚異的すぎて奇跡を何度も目の当りにした気分…。ずっとずっと動かなかったものが遂に動いた瞬間の驚異、しかもそれを目撃しているのは一人だけであった…、其処で終わりかと思いきや、洞窟壁画のように回転す…、世界が少しずつ塗り変わり…、残り香…、降りて来る光…、浮遊し行く身体…、。ここまで想像力の、表現の、限界を超えて行くことが出来るとは…、信じられぬ…、 人はここまで美しくなれるのか…、。

28日(晴れ)
(夢、朝方は覚えていたのに忘る)。
朝方の地震。すかした若者。一と十の夜。 防災班の老人たち。
「自然居士(金剛流)」、舞台上の居ない筈の者たちの存在、舞いの見所多し、能のストイックさには畏れ入る。「明烏夢泡雪」と「蘭蝶」、節を転がすこと、声の色艶と哀感、。
ただしそれは他者に向かって開かれてあらねばなりません、。軸をつくり流れが生まれ渦が出来る。叶うことのなかった願いの歴史。耳を疑うような美しい声。(幸福を思う時それは誰の幸福なのか考えます)。はじまれ…。情と云うよりも動植物的物理的現象としての…優しさ…。 赤坂では飴屋さん、凄かったようだな…。

29日(晴れ)
(夢、再び、朝には覚えているも起きて直ぐ行動すれば忽ちディテールは忘れる、が、起き抜けの感触は其の延長として引き継いでいる、そして生活している中でふと記憶として浮上しかけたり消えたりする、存在と非存在のあわいを揺れている)。
風強く非常に寒し、人通り少ない大通り。矢張り何処かあと一歩徹底していたい。ポトフ食す。落とし物を届ける。顔色の悪し…。
小石川、棚を見つめる女、四枚のレコード抱え電車に揺られる、薄暗き古倉庫のレコード棚の一番奥で埃をかぶて並ぶ民族音楽のレコードジャケットの迫力にぶったまげる、。偶然に或る数学者の記憶と夢に就いての小論考、物質は忘却を得意とせぬこと、。奏する目的は明快である、。一条さゆりのドキュメント音源。黛敏郎の映画音楽。焼酎を口にしすれば早めに寝入る。

30日(晴れ)
(夢、初対面の年配の女性―約二名―は識りし人だつた、N君も、矢張りどこか近いところで繋がって居た…、何故着物を着ないかと尋ねられる、着物来し母、輪と囲み歌ってくれる沖縄に帰りし人々、飯でも持ってお帰りなされ、TTがつくりし幻の落語…、ヴィオロンの弓で自作弦を弾く女…、人を殺した芸人は顔は窶れて真っ青になり現れる、ゴミ入れをつくる、雑多な商店街の博多に本店ある店で本気でラーメンを食らう男どもは個室に入る)。
木の根を伝って歩く、艶、風に揺れる救急車のサイレン、水蒸気の粒子が対流の層をつくって立ち上るのを見上げる、窓の外の緑と光と影と高層ビル。腹部に主軸を据える、。
"土"、恋愛と死、モノとしての身体、言葉による空虚な観念が無化され物質化すること、近松、。右肩の強張り取れず。
蝶に魅せられしジャズメン、富樫雅彦、ジョー水木、沖至…、現と幻のあわいを円舞する音、時間感覚と空間の広がり、忘れること、『WeNowCreate』『SongForMyself』『SpiritualNature』聴く。NME〜Wha-ha-haからHoseに至る系譜、。池田亮二がフリージャズに聴こえる冬の夕暮れ。
音の厚さが紙面を振動さす。新たな原稿に取りかかる。

31日(晴れ)
(夢、かつて通いしバスに乗る薄暗き時、懐かしき人、。丘の上からの小学校、黒き服に身を包む少年たち、鬼ごっこ被差別部落民、見て見ぬ振りされし者たちの矢のような視線に晒され見らる。長き弓矢を持ちて帰宅すると白き部屋には既にもう一組の弓矢立て掛けてあり、着いて来し一人の女性は二階へ上がり再び下りて来てからだ寄せ早朝に寝るようであった、)。
朝、日射しが暖かい、家屋が時折思い出した様にミシッと音を立てる、呼び鈴が鳴り足早に玄関の扉を開くと光がどっと入り来て見知らぬ中年男性の手から一冊の真っ白い書物届けられる、なんと美しい装丁だらう…、表紙には白地にただ「  は  」とだけ記されている…、背表紙には「 じ 」…、そして裏表紙に還すと「 ま れ 」、とだけ……、この世のものとは思えぬような絶世の気配を纏った装丁の書物が稀に存在する、やさしさは光のようだ、語ることばを忘却の空白の果てからはじめようとするひとの、この空白からひとつひとつつぶやきはじめられたことばたち……、(お前の孤独を誰にも渡すな、行け、生きよ、)。
水際をつくること、空をつくる、。土蜘蛛。幸徳秋水堺利彦
蒟蒻蕎麦を頂戴する、蕎麦を育てて居るばばさまの話を聞きながら、山之神への口上と天に昇る火之神風之神と、土の中での菌糸や虫、大量に降る雨、エネルギィに充ちている樹木、古くから其の地で生きてきた人々の知恵、人類もまた蚯蚓や蛞蝓の様に生きてはいけないものか…、夜神楽、其処で想い想いにうたわれる囃子、もしかして"楢山節"とはこういうものであったか…と…、現在でも残っていたことに感激す、詩情の根源とは此れであろう、夢の中でも神楽を聞いている子どもたちの姿…。
有楽町よみうりホールにて「追悼立川談志 リビング名人会 談志ザ・ムービー」、ロビーの独特の賑わいが嬉しい、談吉氏は此の広い舞台に一人ひょうひょうと姿現し高座にひょいと上がりし姿に歳近し者として(ははぁ、)と感じさせられる、成る程なァ、と、「ぞろぞろ」。志らくさんは『火炎太鼓』のまくらで突然に師匠と話し始めたのにはまったく驚いた…、噺に入れば志らくの土壇場で大胆な省略に大胆なジョークの連発、速度、志らくは妄想がどんどん拡大してゆくその描写が此の人にしか出来ぬ腕かも知れぬ、そこから、亭主やかみさんの人間的なばかばかしい愛らしさが出てくる、様々な縁者の真似もつくづく巧いなと。
そして談志の「芝浜2007特別篇」上映、談志「芝浜」は三つくらい聴いたけれど此れは初、が、まったくもう畏れ入った…、とんでもなさすぎる…、大体、まくらで此れから演ろうと云う噺を一刀両断しちゃうなんざ未だかつてないでしょう、其れでも尚、違った側面から噺の中の本当にひとつひとつのディテールの描写の細やかさからこれ以上ないってくらいに惹き付けて行く…、そして噺に息を呑み魅せられているだけでなく今回は…、最早此の方の切り開く新たな噺を生で聴くことはどうしても出来ないのだと…、そして嘗てこの同じ舞台にて行われしものの映像を見ているものですから途中からはスクリーンの前にあったであろう高座の位置…を幻を見るかの様に眺めながら、聴き入っていました…、(それはまるで能舞台でも見ているかの様ですらあった…)、終わってから、暫く動けなかった…。
芋焼酎傾けながら、夢から、或る地に留まり続け歓待する者として…と云うこと、広大な忘却の海から浮かび上がりし只一つの記憶を反復し続ける者に就いて、分担することと時と場所を越えて記憶や知恵を共有せしこと、取るに足らない小さくごく個人的な他人の記憶、親や社会との距離に就いて、関係性に就いて、云ってる事は滅茶苦茶だけど筋は通っているのは徹底しているからだ、堕落論、子をつくること、蒸発、存在の危うさ儚さ物哀しさ…、旅や落語や民俗学や人類学や生物学や芸術や町づくりや文学や写真や仏教曼陀羅や漫画やストリップ等にも触れながら諸々語らう…、と云うよりも私たちはたぶん互いに己自身に対する覚悟の確認としてことばを呟き、その呟きを口にせしことの証人として相手を置き、また相手の孤独な呟きに引き出される様なカタチで再び自身を鑑みる中から新たなことに気付き行くことを繰り返す、其の様な関係なのかも知れぬ…、電車で別れた、月に一度きりの人。「はるかな国の花や小鳥」。
ポール・ミスラキゴダールアルファヴィル』の音、何とも云えぬ感慨。