1日(晴れ) 空き地の奥に打ち捨てられた昭和の車。「桑の木を切りに行くリヤカーの後ろに乗せられて、イチゴを取りに行くのが楽しみだったのよ。一面のいちご畑があるところがあるの。それをちょこっと食べては、持って帰る用に袋に入れてね。私んとこは赤いイチゴしか取れなかったけど、隣家の土地には黄色いイチゴがあってね、これがまた甘いの。桑の木は、うちのところは」「うちのところは養蚕が盛んだったからね。夜中に蚕が桑の葉を食べる音が好きでね。サラサラサラ…ってね、なんか落ち着くのよ」。パッチを何度も貼り赤く乾いてボロボロになっている腕の皮膚。
NUMBER GIRL『逆噴射バンド』@Zepp Tokyo生配信。彼らの本質は青き焦燥感に染まった抒情性にあり、対してzazen boysは抒情をカラッと切断してしまうような狂った強度の方に重心があるように思う(とはいえそれでもなお、その切断面から滲み出る抒情性がニクいのだが)。ライブMCの、zazen boysとの微妙な差異。number girlの方が、曲紹介時に抒情的かつ物語的な描写がある。zazenになって加速した向井のMCの脈絡なき暴走、逸脱ぶりは、かつてゲストとして対バンした立川志らくのイリュージョン落語の脈絡なき飛躍の畳み掛けに近いところがあるように思う。
2日(雨) 役に立たないからこそ、ヤバい、ということがある。雨の銀座から歌舞伎座を越えて築地への道、「"舞い(神楽)"は日常生活では何の役にも立たない。でも、だからこそ神様への一番の供えものなんだ。酒や食物や剣を奉納したりもするけれど、そういった人間の尺度で価値が計れるものを超えた存在、それが"神楽"なのであって、神様が最高に歓んでくれるものは、人間の理解や実用性を超えたものなんだ」というようなことを、齢90になる神楽の大師匠が云っていたことを思い出す。
徳永美代子/徳永陽祐「刺し子と陶の二人展」@ギャラリー江(銀座)。原始感覚的なエネルギーが衣服から、陶器から感じられる。藍染の刺し子の渦。着させていただくと驚くほど薄く、軽く、からだにフィットして呼吸がスーッと通ってゆく。「着る/纏う」とは「宿す」ことではないか。渦を、円を、海か宇宙か。食と人を結ぶ存在たる器、それ自体がモノ(存在)としての力を宿す。本来、人を取り巻くモノたちもこうして生命を持っていた。土ひねくり回し、エナジーを発している。
久々に髪を赫くす。まだ落ち着く時ではない。シャンプー×マッサージが心地よい。右肩がひどく凝っていたらしいが、一昨日の公演の影響に違いない。
細野晴臣トロピカル三部作再聴。過剰なごった煮の自家薬籠的エキゾチズムにいまいちハマれなかったのだが、近頃唐突に生活にフィットする。"孤島ではなく諸島で行こうぜ。鎖国することなくどんどん混血していこうぜ"というような「トロピカルダンディ」のセルフライナー。しかし同時にこの人のポップスにはどこまでも昭和東京的な空気がある。(「風街」のイメージといえば松本隆の詞のインパクトが強いが、細野晴臣、大瀧詠一、それぞれに重なる部分もありつつ微妙にズレたイメージがあったのだろうとハッキリ感じる。細野晴臣のポップスを流しながら飯を食うと、たちまち長屋の四畳半的な親密な空気になる。大瀧詠一は成瀬巳喜男や小津安二郎だ。(そこに関して云えば、鈴木茂はまだ掴めていないのだが…))。
3日(晴れ) 早朝、雨上がりの枯葉の香りが立っていて秋の匂いを思わせる。日中は春の陽気で温かし。駅前、日向の植木鉢の端に腰掛けて、じっと項垂れて寝ているホームレスのじいさん、一時間後にも変わらぬ姿で、帽子だけが足元に落ちている。橋を渡る。いつも見ているが、昨年秋の台風時の氾濫の痕跡を見るたびに、世界の持続性の不思議さを思う。所々に落ちている流木、大量の草や蔓が大きな絡まりとなって巻きついたまま流れの方向に垂れている長い木、イギリス海岸のように平らに削られ露呈した土、傷が残り続けていることのヒリヒリ感と何気ない平穏な日常の安心感の折り重なり。 /神田伯山によるこの柳家喬太郎のエピソード、たまらなく痺れる。
4日(曇り) 【夢】食人の者らが増殖し、町を襲ってくる頃。喰うと性別が反転するらしい。街を見下ろせる丘の上の東屋を基地とす。ホテルの部屋にいた三人、インターフォンに呼ばれ扉を開けてしまう妹、とてつもない力で押し入ってこようとする。襲いかかる。身体に違和感を覚える、性別が変わってゆく。
境内周辺だけ鬱蒼として国道にまで大きく伸びる神木、動かせぬ銀杏に三つの小さな石の祠。冬も終盤の夜の雨の匂い、道路に映る信号の光。/深夜、寺尾紗穂@Dommuneが沁みる。
5日(晴れ) 沈丁花と金柑。右は赤、左はピンクの靴下。遠方の木々が大きくざわめき、やがて風が渡ってくる。休校になった子供らが、川原や公園や校庭で遊び回っている。駆け回る子、砂場に熱心な子、外れたところを行く子…。公園の芝の上で音楽を流しながら盆踊りの練習をする人。/夜、道に迷いながら橋を渡り向かう赤い店。つながりが動かしてくれる。人から人へ広がり土地を渡る。消え入りそうな誰かの、どこかの、いつかの記憶を掬い上げ、声を与えること。憑依について。武満徹、美空ひばり。
6日(晴れ) チャリで川沿いの芝生まで。遠方に、伸びた木に高く足を上げ、かけている人、ひとり。呼吸により動きは運ばれてゆく。腰は沈み、上半身は反り、下半身は足元からせり上がってゆく、その反復。力をまとめながら大きく動かしてゆくための。背に当たる陽光が温かい。
7日(曇り) 電車で川を横に越えてゆく。街は人多し。カフェで異国の話。電話で琉球やロマの歴史と芸能の関係について、2020年について。交差点、交通、柄谷行人とトランスクリティーク、遊動、「橋を渡すな、船を出せ」。
「もはや雨も洪水もない/濃密な炎だけ/それは私の存在の真の状態である/そこで私を邪魔しようとあらゆるものがぬけ出そうとした、/それを私は見るだろう、/それは私から出たのではなかった、それは私の内ではなかった、外でもなかった、/それは私が外で作ったもので私はそれを〈私の〉身体の内に入れなおそうとした、/私とは別のもの、/それはもっと私であり、/私はそれではなく/私はそれになるだろう、/私のなかに後退した状態によってではなく、私に対する意志、私とともにある意志によって、/つまり心も魂も持たぬ非人間的なもの/知性も精神ももたないもの、/絶対的身体の観念」(アントナン・アルトー『ロデーズからの手紙』)。
8日(雨) 家の最も奥まった場所にある寝室にぶら下がった、照明紐についた麻雀牌のキーホルダー。「こりゃ梨の木だよ。植えたんじゃないけど、鳥かなんかの糞に種が入ってたんじゃねぇか?何も育ててないんだけど、勝手に生えてきたんだよ。喰ったことはねぇけど、たぶん苦いんじゃねぇの?あっちにあった蜜柑の木もそうだよ、勝手に生えてきた」。荒れた川原には緑が根元から見えてくる。部屋の紫陽花にも新芽が見える。
『CHAYA 魂の番人 エイリー舞踊団に捧げた人生』、アフロアメリカンを中心としたカンパニーで創始者亡き後、それを長年支えてきた茶谷氏、愛の溢れる素敵な人だ。「僕の振付を使って自分の姿を見せるんだ」というアルビン・エイリー。モダン・ダンスと黒人文化の精神、ブラック・ミュージックという組み合わせは嫌いではなく、身体を投げ出すようなプリミティヴな側面も見えるが、いささかショー的にまとめられすぎている点で、少し距離を感じてしまう。 /橋本照崇『瞽女』。写真パネルを積んだリヤカーを引き引き街角展を開きながら撮りつづける姿が印象的。まさに足で撮る写真家、対象との距離感、目線の低さ、黒の濃さ。
9日(晴れ) 社会的強者は強い方法で訴えてくるが、弱者は弱い方法で訴えるしかない。歯ぎしりを聞くこと。〈生〉を選ぶのは三割で、その後も度々〈死〉との間を揺れる。最後に残るのはプライドだ。自尊心なき者は生き残れない地平。技術よりもまず、こころを深めること、魂を通わせる術を深めること。聲を聴くための耳を、姿勢を耕すこと。
子供らで溢れる都庁下の公園。大切な白い皿を割る。 /BudPowell「Un Poco Loco」(1951)の、怒りにも似た一発触発のようなテンションで演奏崩壊寸前のところ、凄まじい集中力と精度で突破してゆくかっこよさ。マックス・ローチのドラムの神掛かり的プレイが聴ける録音の一つでもある。 /竹内敏晴「"からだ"をめぐる対話(対談:甲野善紀)」(2001)。
10日(雨) 橋の下で雨宿りする人、普段より少し大きく立つ水の音、川上も川下も白く霞む。交差点を限りなくゆっくり歩行する、雨合羽を着た腰の折れ曲がったホームレス。(あなたは「誰でもいい」あなたではなく「誰でもよくない」中の固有のあなたなのだということ)。
昨年より聴き続けているChristian Scott『Ancestral Recall』(2019)、連日追っている「六代目神田伯山襲名披露興行」 、そしてBSプレミアムでやっていた「堤真一×絶海のマルケサス諸島〜人間の"大地"・ヘヌアエナナ」を一本の筋が貫いてゆく。Ancester(祖先)という時の、その射程について。何を受け取り、何を受け渡してゆくか。誰と共に生きてゆくのか、誰と共にここにあるのか。どのように生きてゆくのか、自らの〈生〉を絶えず根本から見つめ、問い続けること。近頃、生きて在ることがいささか自明となっている、生きていることに慣れてきてしまっているように思えるが、そうなるともう、魂が薄まってゆくのみだ。魂を濃くしてゆくこと、ただもう〈無私〉ということ。〈私〉というものはない。と同時に、しかしそこに矛盾することなく自尊心があるのは、共にある者たちへの敬意があるからこそなのだということ。 Christian Scottの音楽には、未来から過去を貫いてゆく奥行き、天から地を貫く垂直性、そして様々な襞が折りたたまれた明晰な世界像があるように思う。 /噺家は寄席で毎日試される、客との勝負に晒される、エッジに立つこと、そうやってプロの覚悟は育ってゆく。
11日(晴れ) 木々が人のように立つ公園。ハクモクレンが咲き乱れる。何事も、たいてい三日目から慣れてくる。 イヤフォンを外し、音に耳を立てる。からだと意識が周囲に溶けてゆくような感覚を覚える。時折戻ってくる。
感覚がひとつひとつ刻々と閉ざされてゆき、光も音も触覚からも遮断されて何もかも真っ暗な闇のなか、逆に意識だけは研ぎ澄まされてゆくということへの恐怖。身体と意識の分離、あるいは霊性について。 死生についての話で樹木や単細胞生物のいのちの話にまで遡ってゆけるのはよい。触るのではなく、触れるということ。 なぜ、からだひとつで表現することを選んだのか。究極まで削ぎ落としたところで、死生もろともからだに抱え、様々な声なき者たちと向き合い、刻々と消滅してゆくかけがえなき時間へとアプローチしてゆくこと。反時代的な探求、抵抗。
夜、久々に三人会@中華屋。繊細さをものにする前に、とにかく大きくダイナミックな躍動がなければ(「奇跡のレッスン:書道編」」と太極拳、昨年の早池峰神楽例大祭の話)。その後、そのダイナミクスを凝縮したり濃淡を変容させてゆけばいい。
12日(晴れ) 北風の肌寒さが残るが、日向では日焼けしそうなほど。公園のベンチで乳母車を揺らしながら童謡「小鳥のうた」をひたすら呟くようにうたうマスクの老婆。"うた"のはじまり。
13日(晴れ) 【夢】車で住宅地をゆく五人、其々にキャラが立っている、突き当たりを曲がると整備の薄い私道のような急勾配の坂、エンジンを踏み込み上りきると小さな展望台のような鉄骨のスペース、最上階には蔓が巻きつき自然との境界が曖昧で周囲のマンションが見下ろせる。/ファミレスのような場所を貸切り、テーブルなどを片付けて行われている大人数のパーティー、翌朝には通常営業するとのことだがギリギリまで行われ、急いで元に戻す。
太陽の上に弓のような虹、川原に乱立する白い細木、川原に横になるピザ屋。 脱力こそが強度となる。からだの脱力それ自体が目的なのではなく、流れを通す通路をつくるために。もっとも深い脱力は死の瞬間に訪れ、その後流れがとどまることで硬直してゆく。 /複雑なことに慣れてしまったからだはつい複雑さを追ってしまう。抑える稽古。
14日(雨時々雪) ふと窓の外に眼をやると雪が舞う。 郡司正勝『古典芸能 鉛と水銀』。
15日(晴れ) 老人二人の部屋で流れているCristina Renzetti。 晴天下の多摩川、気持ちよし。蔵にて首里城と神戸震災10日前の話を聞く。常に七世代先の命と共に在ること、アイヌの「6」。渦巻きの服。セッション、芸能考。 嘉手苅林昌の琉球古典舞踊への伴奏の唄、このタイム感は伴奏音楽でなければ出ない。 夜、亀を飼う定食屋にて鯖定食。スタジオにてコーヒーとギター。
16日(晴れ) 強い風、鳩の群れが陣を組んで上空を旋回し、電線に止まっては再び旋回する。天から羽根や塵が舞い降りる。気配がすれば、ふるえるいのちは立ち上がり寄ってくる。剝き出しの目、声をかけると低い声で答える、奥からより太い声が上がる、小さなやつは跳ねる、その後ひたすらに長い舌で壁の板を舐めつづける。バッティングセンター。 /棚の中から音を探す。なかなか思うようなものが見つからず。
17日(晴れ) 風寒し。仕事の合間、「小さな空」のため朝の光差す公園のベンチで小鳥の声を録音す。
18日(晴れ) 小さな部屋で弱音で鳴り続けるモーツァルトのピアノコンチェルト。 線路沿いを歩き、風の通る丘の上のマンション、ピエト・モンドリアン、風のベランダ、生きもの。久々の音楽スタジオ特訓。瞬発力、呼吸、速度と強度。音に身体性あり。Bill Frisellのヘラジカのぬいぐるみ。
19日(晴れ) 日向の川原で『ケルトの魂』。昼カレー。他人の財布をレジ前に忘れる。「あなたお孫さん?あらそう、わたしはヒューマンよ。あんたいい男じゃない」と通りかかった老婆、去ってゆく。日々の情報量が脳の器から溢れそうになるが、常に瞑想的な時間のレイヤーに立ち戻ってくる。
20日(晴れ) 入江平/田中美沙子/有代麻里絵『ハムレットマシーン/Dance』@喫茶茶会記(四谷三丁目)観る。徹底的に受動的な、暴力に、汚辱に晒された痙攣的身体、狂気。舞台とは「事件」であり「テロ」であるべきだ、と麻里絵さんと話したことがあったが、彼女の舞台はまさにそれを体現している。これはオルタナというより完全なる「アンチ」であり「反体制」だ。
22日(晴れ) 屋上階から見下ろす川原。吹き抜ける風。 「娯楽でも、社交でも、祭礼でもなく、物語や感情の表現でもなく、厳密に生-政治的な葛藤のまっただなかで踊られるダンス、生を隅なく包囲する力関係に反応するダンス」…、宇野邦一の土方巽論でもっとも印象深い一節。反芸術、反ダンス考。
23日(晴れ) 太陽のようであり、また反骨の人。初対面の人の前で緊張する、ということあり。久々の満員電車にいささか疲弊。 Passingしてゆくものとしての身体。
24日(晴れ) コロナウィルスの騒動、こういう大きな動きがあると、天体単位、地球単位、自然単位、人類単位、個人の身体単位、個人の精神単位といったことが大なり小なりシンクロしていることが見えやすい。
ただ「万念皆無」というのなら無機物の世界で完璧である。有機生命体においては、この状態で自己治癒力や自己保護能力がもっとも活性化するが、中国の「気功」の書を読んでいて、それを越えて「元神」("存在"という単位すら越えた力の源であり、こころ以前のこころとでも云うのか…)とやり取りすること、「練虚合道」、「粉砕虚空」…と出てくる。ヴィパッサナーといった瞑想でも、波のようでもあり生成消滅を繰り返す泡のようでもあるエネルギーの生成・変容・消滅の観察を越えたところで、「それ」そのものになってゆくような段階がある。器としての身体の内の流れや質量の変容ということを越えて、器という輪郭そのものが消え、ただエネルギーの波というのか、温度というのか、その質的変容そのものであるような。
25日(晴れ) トマトとバジルを植える。 /Albert Ayler『Nuits De La Fondation Maeght』(1970)。中上健次が書くような「破壊者」としてのアイラーではなく、むしろ瓦礫に降りそそぐ光の下で無為を越えて歓喜にむせび泣くような再生の人としてのアイラー。根っこにはいつも産声のように瑞々しい歌がある。そのような意味において「すべてをアイラーから始めなければならない」(四方田犬彦)という意見には同意する。関連してゴスペル、黒人霊歌などを掘る。黒人奴隷や囚人の労働歌にも繋がってゆくが、ゴスペル、ブルース、神にすら見放され、悪魔でもいいから縋りたい、という悪魔の歌。生き抜いてゆく上で、badがgoodへ、freedomへと反転する地平。死者がオーヴァーダブし、彼岸と此岸の揺らめく領域。何度でも甦るジェームス・ブラウンのcape act。
26日(晴れ) 川釣りをして歩く母子。
文春オンラインにて「森友自殺〈財務省〉職員遺書全文公開 『すべて佐川局長の指示です』」(全文公開)。読む。
27日(晴れ) に角すい「そこは豪雨、ここは雨」MV公開。
外出自粛要請、強風も荒ぶるなか、電車を乗り継ぎ川を渡り県境をまたぐ。笠井叡『DUOの會』@神奈川芸術劇場。文学であれ何であれ、弟子が書いた師匠との回想録というものは大概とても面白い。笠井叡と大野一雄がかつて行った3つのデュオ作品をただ再現するにとどまらず、最終的にイマジナリーな次元において大野一雄をどこまでも飛翔させようとする川口隆夫の車椅子の踊りはきれいだったし、幕間にはさまれる笠井氏の回想も興味深いところはあった。とはいえ、第2部のレクイエムの凡庸さ。こうしたロマン主義的、表現主義的、物語的な大作志向の作品がいまだに「ダンス史に残る」ものとして、しかも行われる前から約束されている風潮というのがいささか理解できないところはある…(まぁ、いまだに例年モーリス・ベジャール祭をやってるような国だから仕方ないのかもしれないが…)。
28日(晴れ/曇り/雨) 春の鳥たちが鳴いている。墓場の向こうの山の斜面に桜が爛漫。こちらは晴れているが富士山は隠れて見えない。夕刻には急激に冷えてきて雨の匂い。明日に備え、植物たちを屋内に入れる。
ルシール・アザリロビック『エヴォリューション』(2015)観る。映像の奥行き、闇、不気味さが問うてくるもの。
29日(雪/曇り) 雪と桜。吹雪く中、雪混じりの水を跳ね、雪国のような川原を横目に橋を渡り、口ずさむアレサ・フランクリンのWholy Holy。変わらぬ人々の姿に触れにいく。先月末に入院したMさんの、その後の話は聞いていない(その嫁さんは更に前月に他界した)。朝方、淵から黄色くなりはじめていた葉は、夜にはきれいに染まっている。
30日(曇り) 【夢】2010年の原始感覚美術祭以来、訪れる土地、田んぼ、変わらないYさん、蕎麦打ち、同世代の青年。/病院と呼吸。
この9〜10年というもの、生きていく上での姿勢を根本から問われるような局面を何度も迎えているが、その中でも2020年はピークになるだろう予感はあった。とはいえそれが思っても見ないようなカタチで現実になり、加えてこのタイミングで大手電力会社は値上げ、水質基準の規制緩和、などなどあまりに多くの問題が同時に深刻化している。きちんと向き合うべき問題が山のようにある。棚上げにするのは簡単だが、こういう時こそ改めて、これから先どのような生き方を選択すべきか切実に考えなければならない。2010〜2013年頃、崖から飛び降りるような覚悟と共に身体表現の領域に踏み込んだ動機も、元はと云えばこうした問いと不可分ではなかったのだった。身体と共に思考すること、生き方を思想の域にまで高めることを、切実に感じていた。そのような意味では、ここ数年の自らの生き方はあまりにも弱く、小さく纏まりすぎている。もともと人生や世の中を俯瞰して見てしまうような性分があるが、それは必ずしもよいこととは云えない。まっとうに闘争すること。まっとうに苛立つこと。まっとうに生きること。変わってゆくこと。変えるために動くこと。やるべきことは山積みである。
情報は錯綜し、絶えず移ろう。こういう時こそ、それらに翻弄されることなく、自らの身体に問うこと、身体に尋ねてゆくところからはじめるほかない。身の処し方として、何が正しいかを探る手掛かりは、そこにしかない。と同時に、身体の探究そのものを、ここから改めて検証し、見直してゆけるよき契機とすべきでもあるだろう。それも、自分に都合のいい観念的、空想的な抽象論ではなく、ある種、身体の鳩尾にストンと落ちるようなものとして、これ以外はない、というような輪郭を持った方向性なりヴィジョンというもの、身体から今現在の自らのあり方を問うこと、もっと云えば、占ってゆくこと。
ごく小さな人類的スケールで見れば、コロナウィルスは敵でしかない。が、自然とか地球の規模で俯瞰して見た時、自然は絶えずある過剰な極から別の過剰な極へと移ろい、エントロピーを増大させながらバランスを取っている。バランスをあえて崩させながら、バランスを取る、ということをしている。(余談だが、これは二足歩行と同じ原理だな)。人類の秩序を破壊すること、混沌とかき乱すこと、その可能性、その必然性、必要性、切実さ。どちらが正義とかではなく、ただ、そうした世界に生きているのだということ。ただ、人類にとって幾度目かの、大きな局面にあることも確かなのであろうということ。とはいえ、人類のやってきたことは取り返しのつかぬところまで来てしまっているのかもしれない。
31日(曇り/時々小雨) 感情を最大限に抽象化するのか、あるいは素粒子レヴェルにまで細分化するのか。 /閉ざされた部屋、雪の日に入れたままの植物たちの時間、毎日オンラインで繋がり共に呼吸する一時間、届くカセットテープ。小雨がパラパラ。たんたんと気が過ぎてゆくのを待つように過ごす。のほほんという『HOSONOVA』(2011)をよく聴いているが、考えてみれば震災直後にリリースされた音だった。
「海が血管で溶けて海風が欲求を持って身体の動きに加担してしまうと ダンスは人間のすべての表情の崇高な芸術として確認される 身体は生きる唯一の楽器だから それは感謝して 感じる… ダンスが私たちを起源へと導いてくれ 私たちは火、動き、そして生命そのものの力を感じます…」。