山田有浩 / Arihiro Yamada

Information of Arihiro Yamada (dance, butoh / ダンス, 舞踏)

12月前半。








1日(曇りのち雨)
(夢、STDさんとあの親友の女の子、IAさん、自己紹介の紙、一年振りのヴィパッサナーに皆で戻って来る、バリのリゾート、現地のお手伝いさんたち、海辺、白き車は昨晩よりエンジンが付けっぱなしだった、ご飯はなくなっており顔見合わせお寿司、白きトイレ、「火の鳥」における過去と未来の関係の話をす。/深夜の住宅地のスタジオにてコントラバス三台で演奏、しまいにはコントラバスを引き摺ったりものを落としたりする等、怒られなかった。/水の秘密の本が二冊、著者、木の蔭の滴る水、大人数のダンス作品(ピナ?)は起承転結もないがひとりひとりの人間が明確で舞台の上を生きている、そんな作品、出演者たちの作品への溢れる愛、)。
久しぶりにゆっくりと起きる、祖父が好きだった新内節「蘭蝶」「明烏」、朔太郎も好きだったと分かつたのは大きい。
吉増作品に見られる「……」という、言い淀みか、吃り、のような、一瞬の間のズレ("沈黙"とも微妙に違う、)の様なものが、此れは吉増さんが耳を立てている処なのかもな、と思いつつ、私もまた紙面に刻印されているものよりもまずは「……」の跫音を聴こうとしている、(此処に気付くか否かで此の詩人の詩の見え方は随分違って来る、)。ことばを新しくしてゆくこと、について模索する日々ではあったけれど、「……」という空白、或いはやっぱり沈黙が、鍵となるのだと、武満さんが(この古代遺跡って楽譜なんじゃない?)「きたるべき知性の〜」と云ったのはまさに此処にあるだろう、と。私が義太夫浪曲や武満作品に魅かれるのも、要は此の空白・間合い・ズレがあるからです。
ひとつひとつを、大切に大切に紡いでゆかなきゃならない、大切なものだけを身の回りに置いて、大切なひとたちと共に。と、"書肆山田"さんの御本を捲っていて感ぜられる、この美しく愛おしい書物の質感は、大切に大切につくられた家具を思わせる。演ろうとしていることの責任の重さから逃げ出しそうになりながら、それでも自分で選んだこと、何の覚悟もいらぬことなどわざわざ持ち出して演る意味などない、。カセットテープの整理をし、聴いていて、或ることがハッキリとする、(此れは此れだ、)、と。さてどうするか…、。
昔、会話をしたホームレスのおやじ氏を思い出す、毎朝髭を剃る、落ちているものは口にしない、ものを盗まない、ということを、最後のプライドとして保っている、ように感ぜられたことを、。寺尾紗穂さんのうたが何故かとても近い…、赤児の声を聞くことに…、三一一後に読んだ大瀧詠一氏のことばは私にはとても共感出来た。
夜、カラーコピーを二枚取りに行く、神社に寄って帰る。ステーキ食す。
しづかな雨音と遠くからの車が通る水の音に包まれて、香を立て吉増剛造『裸のメモ』とH君の或る体験記と折口の数冊を捲る、いつしか原点に戻る、ふと自分の処女作は"あの時"だったのではないか、と思い当たる…、図らずも導かれてしまった夏のこと……、あれから出会った沢山のひとやものごとたち……、遡れば何処迄も続いてゆく……、そうしてひとつ、ふたつ、見えてくる……、今こうして辿っているのはベンヤミンの云うような迂回路をとる歩行、立ち止まり遅延させながらの、……、ゆっくりと到来しはじめる……、石について、跫音について、"踏む"ことと"漂かれ"について、口移しについて、。荘子の"気"のことも、しづかな部屋、深夜。

2日(曇り、寒し)
(夢、プールの脱衣ロッカーは溢れているが服は床にでも置けば良いだろう。寒いのに薄暗い家の廊下に巨大な氷がたくさん積まれている、父が買って来たようだ。/集合住宅、美しい藻が揺れて亀やタガメ等動物昆虫で溢れる細い川沿いのN君の小さな部屋、氏の誕生日だけれど何も買って行くことも出来ず、自分はこういう詰まらない薄情なひとだ、と申し訳ない…、髪の長い男の店員)。
朝から桂文我「ほうじの茶」に驚かされる。
スタジオを二時間取るも、始まって三十分でやるべきこと終わる、何事も繰り返さぬ方が良い、チョコレートを頬張りつつドラム叩いた。それにしても"重力の水面"の音はもはや「水」的な浮遊する無重力的磁場を持つ音よりも硬質な固さを持った地を踏みならすような音になって来ている気もする、「土」か…、。姉やんと此の辺りの土地と古きものについて会話。(ひょっとして何か成し遂げた気でいるんじゃないだろうな?)というill_bosstinoの声谺する。今回の舞台は私なりの"場踊り"なのかもしれない、。
九段下の崩れかけのビルに砂の床、たくさんの卵が孵っていた、風のあとを歩く、砂漠、薄闇の壁に乱反射する光、灯る、立てて並べられた紙切れたち、裏のベランダから見える風景、風、椅子。書きそびれた《私の覚えてる最初の記憶》…、は、もうどれが最初だかも分からないけれど、はっきり"私"の主観というものを認識した記憶と重なっている気もしていて、滑り台の上で親の期待をわざと裏切った記憶、の印象が滅法強く……、でももっと薄暗く消え入りそうな記憶も其の辺りに散らばっている……、一番奥にあった曾祖母の暗い畳の部屋とか、。
茗荷谷、鈴掛の香る路。第一印象で"声"ってすごく大きな位置を占めるなぁ、と思う。
夜、折口を一篇。耳元に吹く小さな風の音を聴いて歩く路、夜の神社。高柳昌行阿部薫『集団投射』『漸次投射』聴く、時間と空間の探求、投射、。Fさんに久々に連絡、依頼す、電話番号間違っていたらしい…。

3日(雨のち曇り)
(夢、薄暗い、KAHのマスターに電話、Iwnさんと古い話。全裸で舞台を動き回る)。
寒い。寺尾さん聴く、カレーうどん食す。雨音と共に生姜湯飲みながら一日、自宅作業。
エアーズロックの赤、蟻塚の赤、胎内の赤、薄暗き溝から差してくる、亡霊の視線、胎児の眼差し、。一雄先生のこと、生者の行進、愛の讃歌。矢張りそろそろ演る場処を変えて行かねばならぬか…、少しずつ動こう、。
行為の痕跡が残るものと、残らないもの…、音楽は、残らない、例え記録したとしても其は行為そのものの痕跡ではない、此の事が昨年夏よりずつとこころにある、どのように通路をつくって行くものか……。吉沢元治ソロ聴く、抑制して抑制して内側から最後に洩れてくる光(=闇)のような、。
おじやをつくり食す。こんな季節を生きる蚊を一匹殺す。珈琲とチョコレエト摂取しすぎで気持ち悪し。KAHに電話する等。

4日(晴れ)
(夢、駐車場にて、車が止まらず酷い事故、同乗していた両親が責任取ってくれる、此の歳になって迄、迷惑をかけていること恥ずかし、)。
睡眠時間一時間に何も腹に入れる事もなきまま八時より十五時迄ひたすら動き回る、激しすぎて許容量を遥かに越えておりどうにでも成れと、ひとつひとつ着実に片付けて行く、眼が回るが踊る事は忘れまい、宝塚の女性が美しすぎて吃驚、車椅子に白髪のおばあちゃんがぽろっと冗談を云うのがまた意外で噴き出してしまう、。Sさん好きだわ。本日もずっと寺尾紗穂
終わりて渋谷にて用事を二つ済ませ目黒にて図書館と書店に寄る。完全燃焼と云った心身の疲労ではあれどもっと他に燃焼すべき処があるでしょう…、部屋で飯を食らい、いたこさんの録音聞き、四十五分仮眠。夜はスタジオ、集注の渦中ではやけに冷静になりながら咳をするのも忘れて動く凡ゆる意識と無意識が繋がっている地点、静と動、鎮魂とマツリ、。後、カフェーにてまとめて神社に寄り帰る。
大野一雄富樫雅彦、誕生すると云う事のエロス、根源にエロスがある、音が背景の気配の中に消え入る時の煌めきを聴き取ること、/或る方へ送ったメールを抜粋(踊りではないけれど、音楽にしては音楽的要素よりも、音を出す行為そのものを通して空間に開いてゆくような、そんな方向に向かっています。大野さんの「命を大事に大事にする踊り(行為)」「死者の感性と生者の行進」といった言葉が自分の中でずっと反復されています。まだまだ未熟な姿を晒す事しか出来ませんが、音楽よりも何よりも、そういった人間になりたいから演っているようなものかもしれない、と、書きながら自分で初めて気付いています……、)とのこと。舞台に置ける近頃の関心は音を出す行為そのものの方へ、音を出す事の根源へと遡ることに向かっている、ですから楽器ではなくあらゆるものを音具として、音を出す身体所作のことも問題になってくる、。対して録音作品は、どのような音を聴き取り見出し、並べてゆくかということを通して、内側のあまり触れられる事のなかった様な新しい場処をそっと撫でるように触れてゆくことが出来れば、などと…。
("遡る"と云う事に関してですが、此の大変読み難いであろう日記の語法もまた、現代の感覚よりもう少し遡った処でものを記してみると云うねらいに基づいている気がしています…)。
『汎音楽論集』ぱらぱら捲る。談志の「100年インタビュー」観る。小義名分。やらないと自分が不快になる。常識にも非常識にも入らない部分としてのイリュージョン。談志の中で反乱を起こす様になって来た談志。百年経てば言葉も感性も変化する、古典落語に残る様な言葉や感性は其れでも尚通用するのだろうか、という闘い、いや、落語だけでなく、。

5日(晴れ)
(夢、BB)。
木下恵介楢山節考』、悲痛なまでに胸撃たれる驚愕の映画体験、此れぞ映画の魔術、イリュージョン、書割のオールセットで隅々にまで情念が染み渡るよう、驚くべき場面転換、色彩と闇と、スローモーション、義太夫と台詞と映像とのあまりに絶妙な掛合いが畳み掛けてくる、ロングショットによって表情は汲み取れぬも役者の全身の姿から滲み出る情、此の身体感覚、掟のシーンから後は只々身震い、降りしきる雪、まさかのラストショットに言葉失う…、。田中絹代って改めてとんでもない女優。此の様な映画の文法の感性についても、昨晩の落語同様の事を感ずる。
なるべくこころをしづかに保って過ごす一日。/"許す"でも"許さない"でもなくまた無関心とも保留にするのともまるで違った小径をつくって行こうとしてるんだろな、自分の中に、と思う、今。(あの映画、あの人と一緒に見たかったな…、)。
『日本フリージャズ史』を拾読。解放して行くことと縛られて行くことは果たして違うのもなのか、と問う。韓国の民俗音楽ばかり聴く夜、時折強い風が吹く。

6日(曇りのち雨のち曇り)
(夢、Mが夜に家に来ると云うので一瞬戸惑うが為すが侭にす)。
寒さの朝に震える、それでも窓は開けている、外の音が好きだから。風呂に入ったり過ごす。
渋谷にてナイロン弦と裁縫用の赤い糸購入、小雨降り出す。一足先に会場入り、裁縫などする。同郷のNaughtFruitsの面々と再会、お元気そう、手作りのアクセが良い。日本春歌考の古田さんとも再会、本日の打ち合わせ、話しているうちに私は本日、氏に演出してもらいたかったのだと気付く、彼がいなかったら今回もう一皮剥けることはなかったろうと思われる。夢の話など楽し。
「(六日深夜、記)月見ルにて半年振りの舞台、無事に終えました。とりあえず、感謝のみ、先に記しておきます。また詳しくは後で。まず誰よりも、急なお誘いなのに都合を付けてくださった古田さん(撮影者だけど、私にとっては大切な大切な今回の共演者、兼演出家、でした。)、むろん、いらしてくださったお客樣方、いつもお世話になっているスタッフの方々、それに見られないけれど遠くより想っていて下さった方々、みなみなさまに、大きな大きな感謝を、お伝えしたい次第です、ありがとうございました。今日は休みます、おやすみなさい。」
舞台を終えて、取り敢えず今私に出来ることはすべて出しきった様に思う、今はもう何も考えられぬが、と同時に、もう完全に意識は次に向かっている……、やりきったとは思うけども、まさに此処からが本当に大変な大変な路なのだろうと思う……、とても濃い充実感と共に、途轍もなく大きな苦悩を抱えたことを感じ身震いを覚ゆ、此れを続けて行く、此処から先へ更に向かうには、此れまで以上の覚悟が居るのだと、そして其れがまた同時に途轍もない喜びへの唯一の路でもあるのだろう、と、。そうした、私なりの"はじまり"となったと思う。より明確な課題がひとつひとつ明確に山積みされている……、終演後に様々な方々とお話しさせていただいていて、その明瞭さに驚く程。
他の共演者さま方の音、殆ど意識と無意識の狭間を行ったり来たりするような揺らぎの中で斜聴するようにしておりどれもとても心地良かった。

7日(晴れ)
(夢、枯れた湖を連れられて歩く。小さなバン)。
筋肉痛。昨日の反省やらまとめる、。風呂に入る。お土産で置いてあった"峠の釜飯"食らう。
踊り作品の音源編集。久々に十二弦ギタァを手に取り二曲つくる、即興で唄うと無意識が浮上してきて面白し。カフェオレ飲みつつ原稿書き。
夜、明大前まで浅川マキを聞きながら、踊りの師匠岩名雅記がノルマンディーより帰って来ているので会いに。自分が勝負する場処は踊りではないと改めてハッキリ認識した上で演っていたが、やはり今の自分が向き合うべき課題の多くは音楽以上に踊りの中に多く秘められてある、ということもハッキリ認識している。第一部、若松萌野さんソロ、沈黙のなか、息が詰まるような緊張感で身体がじわじわと動いてゆく、。第二部、岩名雅記浦邊雅祥のデュオ、とにかく初めて観る浦邊氏に魂消る、あの何者かが取り憑いたような妙な身体の動き、腕の動き、ステップ、にやりとする顔、金属を引き摺る音に始まり…、そんじょそこらの舞踏家には負けぬ自信がある、と云うのも頷ける醸し出す得体の知れぬ空気、。何が飛び出すか分からぬ真剣勝負に駆け引き。岩名さんは変わらずの姿、爪先立ちの全裸、存在の揺らぐことのあわいに立って、されど今日に関しては身体の動きの広がりをもっともっと広げられたのではないか、とも感ずる…、踊りの危機に立つこと、生命の危機に立つことに関してもう一歩、踏み込んで観たかった。が、両者がズラして行くことと同じベクトルを選ぶことをその場その場で選択してゆくことのスリリングさがあり、其れをほんとに楽しんでいるのも見えた。
打ち上げにて貴重なお話を、浦邊氏に(開演前に姿を拝見した時から此の人の動きはなにか妖しい、なんだこのひとは、ヤバいんじゃないか、大丈夫か…、日常からこうなのか???)と思ってた、と云うと爆笑される。呼吸や身体の中の諸々の流れや指の動きがダイレクトに楽器に伝わって行く…、といった話に大きく頷いたり、川仁宏さんの存在を知ったり、。電子音と身体、。音と踊り、緊張と弛緩、持続する息の悲哀、と云った辺りの会話の特に面白し。此の人たちの若かりし頃の姿を私は知らぬ、が、語られる、其の時代の話、強風が吹き付ける様に伝わってくる空気を、身体のなかに詰め込んで行こうとしている…、びりびりと、じりじりと、。Mさんとも久々にお会いでき、名前も覚えていて下さってたのがとても嬉しい。浦邊さんに(またなにか盗みに来ます、)と云うと、ニヤリと笑ってくれた。いつも思うが私は行儀が良すぎる、もっと食ってかかっても良かったのかもしれない、。ずっと、此れから自分がどうしてゆくか、考えながら観、聴いていた。
今の此のテンションを持続して行かねば、と強く思う。この際なのではっきり記すけれど、私を変えるのは女性しかいない、それも幻のように去ってゆく人、なのだと感じる…、"あの人"がいなかったら此の芽生えもなかったろうし、進む動機も此処までハッキリとはしていなかったろう、だから誰よりも感謝してる、そして此の先へ行くのが感謝を示すことだと思ってる。
深夜にSより電話、筋を通すこと、身を晒すこと、自ら引き寄せる偶然のこと、自分なりに持つ体系のこと、恋愛話、等々とにかく悶々と数時間、(たとえ両腕が無くなって音楽も執筆も出来なくなっても尚、世界は輝いてあなたを包んでる)ということばを、。

8日(曇りのち雨)
(夢は見たが記さぬうちに忘却…)。
新宿でAに渡しものの後、浅草の道具街を物色、竹細工に気になるものを見つける、が、目的地は休みで残念。
上野駅前の混み合ったカフェーにて時間まで書きもの、人を待つことの嬉し、雨の向こうから昨年と同じ緑のコート、カフェ・ギャランにてバナナジュースとともに半年振りに、此の店の窓際の席が大好きなのである。対話型鑑賞、体験すること、第三の生き方、宗教から、死生学や水俣の話。
夜、磯丸水産に移動して帆立や海胆や海老やらつつく、旨し。巫女と遊女と放浪する女。ことばの秘める力に就いて。それぞれが負っている業、不思議だな、なんなのだろう、でもとても大切な時間、彼女とはこの"距離"がとても大切である。
電車、長い間幻とばかり戯れていた人は、少しずつ別の世界=関係が開けて来ているのを感じて嬉しい。
別れて眼を瞑り、パラダイスガラージ「移動遊園地」をこころのなか口ずさむ。

9日(雨のち曇り)
(夢、Uさん、廃れた屋上の遊具、ビリヤード。廃れた階段で野宿、寒し)。
お仕事、あまりに暇ではあったがそれなりにいろんなこと考えたり動いたりして居た。茄子のボロネーゼ食す。私は上手くやっているようだ。踊りと音楽と茶の湯の話、英会話…。
店で少し休んで、電車にて日本パーカッションセンターへ、幾つかの買い物、ウドゥドラムを幾つも叩かせてもらう、スレイベルも。
歩いて天才算数塾、Yの一日店長、四歳の演出家Iちゃんの作品を演じることになり圧倒される、私は"ころころどり"の役、最高でした。元美大生だらけ、赤ワインにご飯がとってもおいしい。Yちゃんと半年以上振りに会う、纏うこと=間を問うこと=関係を捉えること=揺れ動くものを捉えること、自らも運動体として、と云った事等話す、眼をどのように向けるか、呼吸、鳩尾、"ない"部分、等に就いても、電車の中で。作品と生き方をどう結びつけてゆくか、が問題だと思う。また年の明ける前に、。

10日(曇り)
(夢、たしかセックスをしていた、相手は忘れた)。
『豚と軍艦』を見ながら片付け。
本郷求道会館、興味深い建築、阿弥陀さまへ射す光、。新佛教について、折口信夫と山川周明と鈴木大拙より。漸く自分なりに井筒俊彦へと辿り着きそうな気がする、。社会性。やはり幼少期に敗戦に置ける思想の反転を経験した方の切り込みの気迫はすごいわ、と感ず。
古本屋で一冊購入。茗荷谷、誰もいない夕刻の公園、。
月食を見つつ、芸能山城組『恐山/銅之剣舞』を(すっげー時代だなぁ、)と大笑いしながら聴く。
何となく今、私のこころの動きは危うい処を行き来しているやもしれぬ、Mと"距離"に就いて、。土方巽が(私は本物しか使いませんよ、)とニヤリとしたということがずっと残っている。
深夜、明日の為のさまざまな"物"の準備。

11日(晴れ)
早朝、しっかり起きれた。大荷物を背負って電車。陽が眩しくて何も見えないことで何故か女性と親密になる。本日のみの新人二人に手解き、こうした面倒見るのは結構好きらしい。
外苑前の銀杏並木を歩きつつサンドイッチ食し、ひとつ用事(瀧口修造展)を削って神保町タカノ屋にて四時間半原稿、吉増剛造武満徹、。夕刻、弐佰円で『火の鳥』二巻購入。
公園にて知人と遭遇、私は有機物以上に物言わぬ無機物との関わりから音を立てる事に関心があるようだ。
美学校へ音響/音楽を担当させてもらった踊りの作品を観に行く。プロローグの全員での踊りには驚いた、なにかにそっと触れてゆくようなしづかな汀が生まれていた……、揃わないことの美しさ、やはり此れを引き出してしまう室野井さんは凄い……。青柳ひづる〈花のいろ、風のかたち〉もなかなか面白かった、というか、何よりも自分の音が面白すぎて踊りに集注できず…。
其処から荷物担いで大急ぎで笹塚、時間ギリギリではあったけれどちゃんと準備も出来て空間も掴めたのが良かったと思う、iiさんとそのままセッション、冒頭の完全即興を覗き、iiさんの楽曲にもその場で自由に音を置いて行く、一時間所狭しと動き回りながらいろんなこと引き出してもらえて本当に楽しかつた……、そうなんだよな、"やりたいことをやる"んじゃなくて"やるべきことをやる"ということ、だから、主体的に音を置くと云うよりも、音を置かされているような感覚に近いのだと改めて感じていた……、ですから、"なにもしない"という事もひとつの"やるべきこと"としてあったりするんだと思う、。本日冒頭、セッションが始まるかと思いきやiiさんが録音機を回しに立ったのに思わず釣られ、私も思わず立ち上がり動き始めてしまいました、そして其の侭会場を旋回し始めていました、そういった、偶然が手を引いてくれるような瞬間を逃さぬこと、只其れだけだと思うのです。風鈴とグラスハープ、床や壁、ピアノの下、テレコ、太鼓……等々、一曲一曲やることは明確だったし、それぞれがiiさんと平沢さんお二人の曲や唄のヴィジョンに一層の深みをもたらす事が出来たら良かったな、と。でも、音はちゃんと、他者としてある、ということが、私にはとても重要で、或る音がもうひとつの音に従属する、と云う様な関係性は私の望むところではないのです。此の辺りが、最初はどのように関って行けるのか心配もあったけれど、思った以上に多様な可能性があるなぁと再認識。とっても有り難いことでした、お誘いして下さったiiさんは勿論、此処で出会えた皆様に感謝感謝、あの空間もとても良かったし、ご飯もおいしかった。お次の方々、同郷との事で驚く、ずっと眼を閉じて聴いていて、心地良し。終わってからも、ギタァをお借りしてセッションしたり…、こういうのは朝まで出来る…。
先日といい一回一回のやり尽くした間がすごい…、なんかすごい疲労感と至福な心地良さ…。自分にとっては舞台こそ全力で生きれる場だな、と強く感じていた、。そして其処では矢張り速度が、瞬発力が、反応の早さと的確さがすべてである、と。結局最終的には、人間の愛に、優しさに辿り着きたいのです。帰りの電車にてiiさまと様々な話、もはや自分自身の確認の為のような。勝手に私だけ話してただけみたいだったけど、お付き合いくださってどうもありがとう……苦笑。iiさんとは、もっと回を重ねると面白くなりそうな予感。即興とか偶然性とかそういったことではなくなってくる処で、一体何が出てくるのか……、といったようなこと。
帰宅して湯船に浸かりながら他の事に思いを巡らせていて沸々と感じていたのだけれど、狭間を絶え間なく揺れうごめき続けること、。
帰る家があること、冷たい風を凌げて、温かい布団があることが、どれだけありがたいことか…。耳鳴りがする。

12日(晴れ)
朝から踊るように作業、ひどく捗る。流れるクリスマス音楽に溜息のおばさん。とある方のあまりの美しさに絶句、こんなこと久し振り…。八十を越えて尚(今が一番楽しい)と眼を輝かせているひとはすごいなぁと。豚肉のピカタのグラタン添え非常にうまし。
仕事後もその場に残り四時間半作業、文字数に収めること難し…、当論考に置けるシュールレアリスムとの距離に就いてハッキリしてくる、。カフェオレ三杯。。
佐藤充彦『パラジウム』を熟聴していて富樫さんのドラムに今までになく戦慄して吐き気をもよおすほど。恐ろしい。ジャズを聴く感性と詩を読む感性は自分の中では繋がってる。空間を泳ぐように揺れながら坂道を上ってきた。くらくらするのは近頃味の濃いものや肉ばかり食べてる為か。
ジム・オルークエレクトロニカを久し振りに聴くが、まるで日本のフリージャズの音のようにしか聴こえぬ。
違和感を感じるものを生活から外していくこと、と云われても、そもそも此の様な身体と云う物質から逃れられぬこと自体が違和感ありありなんですけど…、自分の身体と云う違和感装置を通してしか何も感じられないでしょう、でも踊りって唯一その身体への違和感から羽搏かせてくれるものだと思っています。/一瞬一瞬を逃さぬことです、一秒はあまりに長い、一秒後ではあまりに遅すぎる、瞬間瞬間を確実に掴まえて着実なところに身を置いてかねばならぬ、音楽や踊りの話じゃなく生きてることの話。
人間の持ちうる可能性を冒涜してたり弊害してたりする奴等は片っ端からむかつく、でも其の人等に対し具体的なアクションをちっとも取れずのうのうと今まで通り生きてる自分はもっとむかつく、等とこんな処に書いて其れで何かちょっと得意気になってる気がして居る自分が更にむかつく、。

13日(晴れ)
顔に二本の深い皺がはっきり浮かび上がる、農園より帰って肌の保湿も何もせぬ様になったからだろう、刻まれり時の跡。
朝より殆ど人がおらず。寺尾さんの大好きな歌口づさむ折り、突然あぁこの唄は赤児の事を唄って居たのだ、とすべて解けた思いのせり、ヴィジョンが更に一挙に開ける。
自分が気付けば無意識に人を差別している人間だということを改めて認めざるを得ない、私なんぞの視野の狭く偏った価値基準から導き出された清潔か不潔かといった様な判断で人との距離を差し測ったりする、自身の生き育ってきた様なちっぽけな世界の価値基準に何時でも拘泥して生きること程阿呆らしきものはない、自らの基準を進んで解体し更新して行くこと、自分を裏切る事、自らを投げ出す事、生きる上で最も大切にしたいところ、。様は、片目の潰れたようなホームレスの親父が陽の当たる場処に入ってきたことに一瞬身じろぎしてしまったことである、この一瞬の戸惑いというものが全てを分ける、親父は思いの外早くに立ち去って行った、"場違い"であることを感じたのか、此処から考えさせられる事は多いものである、そのひとつひとつを保留にせずに徹底的に考える事、。/置かれて居る雑誌のコピーに只々呆れるしかない、終わっている、品がなさすぎる、安すぎる、世にひとつのコピーを複製して出すと云うことの責任をどう感じているのか、その数だけ世にその水準のものが撒かれると云う事です、世界を嘗めてるんじゃないですかね、世界を本気で良くしようと思うのならばこんなコピーが出てくる筈ないんですよ、こんなものバラ蒔いて本気で世を下らなくどうしょうもなく救いもない消費と欲望の社会にして行きたいんですかね、その程度のものに付き合う程暇でも無いけれど意識が低すぎるものが溢れていることには溜息しか出ぬ、。/ほんの一瞬でも挨拶しに来て下さった方のいらっしゃる事嬉し。/先日の踊りの話等する。時間の経つこと思いの外早し。
仕事を終え、本日は三時間の最終確認、メンチカツカレーとリンゴジュース、何時しかMさんと親密に。
渋谷にてケネス・アンガー『ルシファー・ライジング』『快楽殿の創造』『我が悪魔の兄弟の呪文』『人造の泉』。生命の力動の源泉へと遡って行こうとする様なイマージュの氾濫、ことば以前の神話的世界を甦らせようとする様な、人間の始源的な狂喜の饗宴は神の様、幻覚を見ている様に織り重なる時間と空間の融解する色彩とイマージュの氾濫、ミックジャガーと云う人の感性も今一度見直さなければならないと感ず、『人造の泉』は昔VHSで観た時との印象がまるで違って驚いた、水が溢れ出す光の様に乱反射す、放射される、湧き出づる絶え間なく姿を変え続ける光の泉の宇宙的な姿、観ていて身体が喜びに溢れてくるのを感づるのだ、映画とは何か、と問われている様にも思えた、光に張付けられたイマージュ、そしてこの作品を只の実験映画を越えて"見られる"ものにしているのは最後まで顔の見えない貴族的な女の気配である、エレガンスは重要である。/私の好きなホームレスたちは皆、自分なりの信条と了見を大切にしてる。
芥川『書簡集』購入。Fさんとメールの遣り取り、感謝。お茶しながら折口。春日とよ栄芝さんの小唄に痺れる。手塚治虫火の鳥(未来編)』読み、此のシリーズにどれだけ影響を受けているかを改めて感ず。
私が生まれてまだ十日目くらいの時、曾祖母が(生まれた時から人の顔には位があるものです。此の子の顔にはとても貴高い品位がある)、というようなことを、生まれてまだ十日程の赤児の顔を見てですよ、云ってる録音テープが残ってるのだけれど、貴高いかどうかとかとかは置くとして、そうした品位みたいなものを業として背負うと云う事に関して。

14日(曇り)
(夢、九人ほどで車を降り見知らぬ屋敷の地下で宴、堂々と行っていたが、朝方、主に見つかり追い出される、落ち葉の積もった屋敷の表に人の手が落ちているのを見つける、あ、やばい、と感じつつ、…おそらくはややこしい事になる。古いブラウン管に映るもの…。pango)。
伯父の誕生日、今よりもっとお金の無い時分は大切な人に花を買う事も出来なかったなぁと。冬野菜にからだ温まる。ニーナ・シモンを聴きつつ大昔に貰ったストロベリー&スパイス・ティーを傾けてとある作業最終日。
もはや私は所謂"コンテンポラリーダンス"と呼ばれる様な範疇でやってるような踊りは反吐が出る程嫌いなのだなぁ、と感じております、単純に身体能力の高さには驚いたりするけれど、それ以上に胸ぐら掴まれてわっさわっさ揺さぶられる様なものと出会えることは殆どないのですもの、其の辺、どうぞ宜しくお願い致します。
マキノ雅弘『次郎長売り出す』『次郎長初旅』『次郎長と石松』観る、こうした時代物のことば回しや所作や風俗一般及び了見等の空気をからだに入れるのが好きなのだけれど、(わっしょいわっしょい、)って単純に面白し、と云うか森繁さん流石、第三部での映像の奥行き。
そう云えば先日の舞台で割れてしまった石を何処かに埋めに行かねばなるまい、と思い出す。一日部屋に籠ると呼吸が苦しい。
今でもたまに思い返す、つい先日だと思っていたのにもう完全に過去になってしまってるのね、あのひとはちょっとこころが不安定だったけれど、元気で居てくれたらいいな…、あなた、前に進む為に別れたんだから元気でいないとダメですよ、あなた、ほんとに。

15日(晴れ)
(夢、岡村靖幸、旅)。
風呂に入って、おじや食べてから音響資料編集等。
同じ様な処に居る人に対して非常に挑発的な気持ちになってしまうことが良いのか悪いのかは分からないけれど、それも結局は自分自身を常に挑発してる事の裏返しなだろう、其れを他人に向ける事で更に自身を挑発しているという、そういう事なんだろうと思う…、なるべくそういう挑発は態度やことばでなく舞台の上でやることにしてるけど。/正面と背後に就いての考察。人間は考える塵である。
カフェーにて推敲。/夜、待合わせ時刻迄新宿徘徊、充たされぬ人で溢れてるなぁ、此の街を歩くと孤独に閉じてしまう。/色々と話を聴きたくてHくんとぼろぼろのお好み焼き屋にて語らう。他者の視線をもっと入れたくて。土方の貧しさと脱記号化、二重の意味での"盲目"、リズムの野蛮さに異なる層からの声、此れまでの活動を象徴するものによって挟まれていたような構造、他、幾つかの気付きと宝物のようなことばを頂いた気のする。京都帰りのYちゃんも合流して珈琲貴族エジンバラへ移動して、小説と時間に就いて等。
そう云えば昔聴いたAmephoneさん制作に寄る架空のラジオ番組作品の影響、自分はすごく受けてる様に思う。