浮世のあれこれがもうイヤになっているもので、(以前からですが…苦笑)、
全然更新もせずにすみません…。
お知らせです。
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2015年4月15日(水) 独舞《幻がとてもおもたい》
20時開演 ¥1000 @きいろろ聡明堂(梶原駅)
様々な経緯あって、再び きいろろ聡明堂 でやらせていただくことに。
タイトルは沖縄の詩人、仲地裕子さんの詩よりお借りしました。
風化したさんごを めりとおりしだいて
まっかな土を かたくもりつけた
わが分身たる 土まんじゅうのクルス
幻がとてもおもたい
(「家系」『ソールランドを素足の女が』より)
沖縄返還の翌年に刊行された詩集です。
「わが分身たる 土まんじゅうのクルス」…、ここで云う「幻」とは、それが記号的にイメージさせるような柔なファンタジックなものでないことは明らかですが、私にとって踊ることは、いつもこのような「幻」と共に生きて在る身を晒すことだと感じたりしています。
このタイトルの下で、今後、何本か作品を作ってゆこうと考えています。
きいろろ聡明堂では昨年、《音楽を利用するでもなくされるでもない身体=現存在のために》というシリーズをやらせていただきましたが、その延長に位置付けられる、ひとつの作品と考えて頂ければ。
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2015年4月12日(日) 月例公演《私という現象 vol.5》
16時開演 ¥800 @くら七世代(京王多摩川駅)
無音、自然光、衣装最小限の月例ソロ。川沿いの蔵の持つ独特の空気や自然光とのやり取りを緻密に重ねてゆくような探究も第二期に入っており、毎度、むくむくと変貌を続けています。
地元のおばちゃんたちや、猫も来てくれるようになってきました。ばっちゃんたちが公演の途中で恐れをなして帰ろうとしたけど帰るにも帰れず、でも最後まで見たら、見れてよかったと言ってくれたり(笑)、毎回いろいろあります。
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そして、本をつくりました。信頼する同世代の詩人、音楽家と共に三人で。
三者三様の立場から、今現在を綴っています。
それは自ずと、なぜお前は踊るのか、なぜお前は書くのか、なぜお前は唄い奏でるのか、といったこととも繋がってきます。
今この時代に、踊ること、書くこと、唄い奏でること…。
「今現在」の向こうに広がるものへと通じてゆこうとすることでもありながら…。
私は冒頭の四〇頁を書いています。
自分は文章の人間ではない、とは思いながらも、もう書くのはこれが最初で最後だと腹を括るような気で、今書けることを、書いておきたいことを書きました。
amazonでも販売が始まったので、是非とも手に取ってみていただけると幸いです。
基本的に人とつるむのは嫌いですが、こうして馴れ合いでなく共に闘ってゆける人がいるのは有り難いことです。お前は書くべきだ、なんて言ってくれる人がいることは幸せです。
http://www.amazon.co.jp/dp/4990762932
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それから、共に執筆している詩人の菊井崇史くんが全面的に関わっている、土方巽『病める舞姫』の読書会、毎月第2、第4水曜日に四谷三丁目で行っています。こちらも、以下の彼の宣伝文に少しでも引っかかった方は、いらしてみて下さい。宜しくどうぞ。
『病める舞姫』読書会
日時:毎月第2、第4水曜日(4/8, 22, 5/13, 27) 19:00〜21:30
場所:四谷ひろば ギャラリーランプ(四谷三丁目)
会費:¥1000
” 書物『病める舞姫』を読むことは、そこに書かれ息衝く言葉を理解することではなく、その実景に各々の身体、言葉をひらき、邂逅すること、体験することだ。あらゆる邂逅がそうであるように、はたされた以後、われわれはそのままでいることはできない。それが身体を賭した経験だ。そして、身体とは絶えず、言葉の様相と無縁でも乖離するものでもない。われわれの身体とは言葉であり、われわれの言葉とは身体である、土方巽の言葉は、強烈にその事実を告げている。それは、「命は形においすがらねばならない」と土方巽自身が告げた必需に顕現する言葉のすがたであり、身体のすがただ。”(菊井記)(全文はこちら→)http://www.webdice.jp/event/detail/14169/