山田有浩 / Arihiro Yamada

Information of Arihiro Yamada (dance, butoh / ダンス, 舞踏)

Thought of Love in the time of Covid-19【Text】

メキシコのダンサーLu Anayaとの手紙形式の対話、第6信を更新(英文です)。 

 

Thought of Love in the time of Covid-19 | L x A (x moon)

 

以下に、和訳も載せておきます。(少し手直ししたいのだけれど…)

 

Thought about love in the time of Covid-19(和訳)

 

 前々回に手紙を書いた時とは、まるで異なる地平に立っているような気がします。そちらは、まだイスラエルにいるのでしょうか。イスラエルは、政府によってかなり厳重な政策がとられたと聞きましたが、どのように過ごしていますか?日本でも、多くのシステムが機能停止に陥っていましたが、ようやく少しずつ再開しそうです。今回は、最近考えていることについて書こうと思います。それはどこかで私たちがこれまで話してきた、「愛」や「ダンス」の話題とも関係してくることでしょう。

 

 まず第一に、当初からCovid-19に対して「人類の敵」と見做すような言説が見られましたが、私はそのことに強い違和感を感じていました。生命が誕生したのとほぼ同時期に、ウイルスも誕生したと言われています。生物はウイルスと共に生きてきました。時に多くの命が奪われ、また時にそれを自らの内部に取り込んで進化の糧としてきました。多くの生命はこうした危機と共に免疫力や抵抗力を鍛え、長い年月をかけて身体を更新してきました。

 むろん、ウイルスは人類にとって大いなる脅威です。「不気味な、未知なる、理解不能な、超越的な他者」です。近代以降、人類は、理解不能で不都合な他者は社会システムから排除しようとしてきました。そして大いなるものへの畏れや謙虚さを欠いた社会を作り上げてきました。

 最近よく耳にしますが、今、人類の営みの一部がストップしたことで環境汚染が改善されていたり、動植物の営みも活発化してきているようですね。また、乳がん患者がCovid-19で入院し、無事に治癒したかと思ったら癌細胞も共に消えていた、という話も聞きました。自然界には完全なる「善」も、完全なる「悪」もありません。本当に怖いのはウイルスよりも、それによって生じる人間間の分断や正当化される差別や暴力、全体主義体制の強まりなどの方なのだと思います。

 

 大切なのは、圧倒的に「不気味で理解不能な」他者や、物理的/社会的に目に見えない脆弱な存在への想像や感性を止めないことです。しかし同時に、想像など及ばぬようなことの方が圧倒的に多いことや、人間中心の物差しで物事を測らないことも忘れてはなりません。こうした想像力や感性の欠如した人類は、あまりに虚弱かつ横暴です。

 また、「共生」ということについても改めて捉え直す必要があるように思います。それは必ずしも調和のとれた「平和友好的」な関係とは限らないのではないか。極端な話、自然界の「共生」の中には、人間の倫理などはるかに超えて、例えば、過剰な暴力性や破壊性によって種族のほとんどが滅び、偶然にも生き残った生き残りのみが対象に適応してゆく、といったことが繰り返されるような「共生」の形もあるでしょう…。その過程で、互いの身体組織の一部が新たにアレンジされ直すようなこともあるように思います。それどころか、自然界には「共生」などできぬほどの圧倒的な力が存在することを感覚的に理解しておくことも必要です。多くの絶滅や殺戮が繰り返された地平の上に、今の私たちの営みはあります。人間以外の生命をも含めた、名もなき死者たち、これから生まれてくる者たち、生まれてくることが不可能だった者たちへの想像力と共に、常に物事を見つめてゆきたいものです。

 また、今、何よりも大事なのは、こうしたことを理念とするのみならず、自らの生き方へと真摯かつラディカルに問うてゆくことなのだと思います。

  

 こういった話題は、これまで私たちが話してきた「愛」の問題にも新たな視座を与えてくれることでしょう。「共生」の概念と同じように、「愛」が慈しみ深く包容力のあるものというイメージは、その一側面にすぎないのではないか。

 結論から云えば、人間社会でも「愛」と「暴力(Violence)」は紙一重ですが、どちらもこの世の中に働く根源的な「力(force)」の一つの側面なのではないかと思っています。毒を治療や癒しの力を持つ道具として扱う例は世の中にたくさんありますが、個体を破壊しうるほどの力によって、生命のあるポテンシャルが引き出され、そこから新たなフェーズが切り開かれるようなことは、生命史の中で何度も繰り返されてきたことでしょう。ここに「愛」の原理をどのように位置付けることができるでしょうか。

 生成/再生の力を「愛」、破壊の力を「暴力」と単純化して呼ぶことも可能かもしれませんが、究極的に言えば、「愛」というもの自体が、ある種、相手の身体に働きかける、その状態を変容させる「力」の一側面と考えた方がいいかもしれない。

 

 特に私たちの「ダンス」と結びつけて考えるのであれば、「愛」ということを特化するのではなく、生成も破壊もひっくるめた根源的な「力」というものについて身体を通して真剣に思考しなければ、人間の「倫理」にとって都合のいい美化された側面しか見えてこないようにも思います。これはもはや「愛」とか「共生」の範疇を超えた話かもしれませんが、むしろここをスタートに据える方が本質的なのではないかと思うのです。

 

 最後にもう一つだけ。生きてゆく上で、私たちはつい、「不気味な、未知なる、理解不能な他者」の存在を生活から排除し、考えないようにして生きていますが、そのように形成される安心できる「ホーム」は幻想にすぎないのだ、ということも、今改めて強く感じています。他者や危機は、外部からやってくるだけでなく私たち個々の身体の中にも存在している、という感受性を持つことは大事です。「ホーム」はあらゆる場所に偏在します。私たちの身体がそこにある限り。それは幻想とも特定の土地とも所属意識とも関係ありません。手掛かりは、私の場合は「ダンス」にあり「音楽」にあり「重力」にあります。

 またしても長文になってしまいましたので、この辺で。今回は、この手紙を新月の日に書くことにしました。それは新たな月が生まれる日だからです。

親愛なるLuへ。