土砂災害や川の増水、強風や高波に注意を、
と、ラジオからまくしたてる、
降り続ける雨で、水溜まりがだんだん大きくなっています、
と、声が街中を電波の上で飛び交ってから数日、
その一寸の慌ただしさも過ぎて、
まるで暑さまでも連れ去ってくださったかのように
すっかりと涼しくなりました。
夕暮れの色も溶けてきます。
こうなると、
夏が寂しくもあり、冬が待ち遠しくもある。
秋、か。
香る風が吹いて。
虫さんたちの声も、もうしばらくしたら、です。
線香花火の灯し火。
でも今日も揚羽蝶が
近所の銭湯の前に置かれた鉢植えの
花から花へと舞っている姿を見かける。
線香花火の灯し火。
水流のように織り重なる蝉たちの声々も、。
いのちを一本の灯し火に例えるだなんて、
だれが始めたんだろか。
想像力から湧いてくる。
先日は、
気付いたら、まるで写経と変わらぬ行為をしておりました。
「入る」前のことでしたが、
きっと入ってゆくためのものだったのだろう、と。
一点へ向かって。
道をつくってゆくようにして。
白い花が部屋に来ました。
ねこが新参者の匂いを嗅ぎにきます。
雨の空気がまだ大気に残っているのかしらん。
(あ、)と思って見上げれば、
やはり鈴懸の樹でした。
私にはやっぱり、この匂いがどうしても引っぱられる。
隣り家の薄暗がりの生け垣に、
赤い布がたなびいていて、ギョッとしました。
なんだろう、いつか手作りの簡素な棚ができていて、
小さなものがたくさん乗っている。
冬のコートを着込んでいる姿、その白い空気感が見られて、
胸をギュッとする。(映像)。
早く来い来い、真冬よ。真冬が恋しい。
黒のオーバーコートが恋しい。
冬の寒々しい暖かさが恋しい。
増ゆる、籠る、膨らみ上がる、冬の光の球体が、。
霧の中の風景。
霧の日にだけ、解放区になる。
宙吊りにならないと、なにも出てこない。
出てくるきっかけもない。
と、帰り道、再び頭をかすめていた。
そのような「場」を、日常の中に意図的につくっているんだな、と。
自らを組み込んでみる、凹み(/窪み)の中に放り込んでみる。
世を動かしている"からくり"(「機械」。
足穂さんにとっての「機械」の問題が、
数年を経て漸く身体的に腑に落ちるようになってきた気がする…、)
の一部に、意図的に、触れてみようとする。
いつも通り、神社に寄って帰った。
提灯がたくさんぶら下がっていた。
時期に、奉納だ。
結局、この世のすべての唄はラブソングだ、と話す。
すべては、 、だと。
鎮魂歌も讃美歌も歌垣も、結局根っこは同じだ、と、
随分前にも感じて、ここにも記した覚えがある。
声・音にまつわる(情)念のようなもの、は、
根源的には、愛以外には有り得ないように思える。
と同時に、声・音を即物的に扱うところから、
この根本命題へと下りてゆくことも、可能なのだと。
(その距離感をどうとるかは、それぞれなのだけど、)。
生態系の一部へと、還ってゆくことと、
人間らしさが溢れ出す地点、
人間の中の自然がぶち撒かれる地点、
渦(動き→時間)(銀河系から、台風や旋毛を含んで遺伝子まで)から、
いのちの力動が生まれ、それはいつでも生と死と再生を同時に宿しながら、
全体として、生きている、という、その循環の中に、
生きている、
この時間、の中で、
愛を唄うことは、どのような意味をもつか。
唄とはなにか。